無・空・零の数理構造

―― No, None, Zero が織りなす数学的宇宙 ――

終章 「無」から生まれる「全」 ―― 空集合から自然数へ

本書はここまで、数学における三つの「無」――数としてのゼロ、集合としての空、論理としての否定――を、数論、代数学、集合論、論理学、解析学、計算機科学、物理学、そして圏論とトポロジーという広範な領域にわたって辿ってきた。それぞれの章で見てきたように、無は数学のなかでさまざまな顔を持つ。それは加法の単位元であり、乗法の吸収元であり、空集合の唯一性であり、論理的不存在であり、極限への漸近であり、関数の零点であり、Nullポインタであり、量子真空のゼロ点エネルギーであり、圏の初期対象であり、ホモロジー群の生成元である。

これら多様な無の現れは、しかし、究極的には一つの中心的な営為に収束する。それは、「無」を起点として「全」を構成するという、数学の最も根源的な企てである。本章では、この企ての最も簡潔で最も衝撃的な例である、フォン・ノイマンによる自然数の集合論的構成を辿り、本書の旅路に終止符を打つこととしたい。

第一節 フォン・ノイマンの順序数

二十世紀ハンガリー出身の数学者ジョン・フォン・ノイマンは、若き日の一九二三年、わずか十九歳の年に、自然数を集合論的に構成する優美な方法を発表した。その構成は、空集合という、要素を一つも持たない集合のみを出発点として、自然数のすべてを階層的に組み上げるというものであった。

フォン・ノイマンの構成は次のように進む。まず、ゼロを空集合と同一視する。すなわち、0=∅。次に、各自然数nに対して、その後者n+1を、nまでのすべての自然数からなる集合として定義する。すなわち、n+1={0, 1, 2, ……, n}。この再帰的な定義によって、すべての自然数が空集合のみから構成されてゆく。

具体的に書き下せば次のようになる。0=∅。1={0}={∅}。2={0, 1}={∅, {∅}}。3={0, 1, 2}={∅, {∅}, {∅, {∅}}}。各自然数nの内部構造は、それまでに構成されたすべての自然数の階層的な入れ子であって、その最も深いところには空集合が住まっている。すべての自然数は、空集合の多重の入れ子として完全に定義される。

この構成の優雅さは、自然数というものを、何か神秘的な形而上学的実体としてではなく、空集合という最も簡単な対象から始めて、純粋に集合論的な操作によって構築しうるものとして示している点にある。1とは「空集合のみを要素として持つ集合」であり、2とは「空集合と、空集合のみを要素として持つ集合という二つの要素を持つ集合」である。1や2は、それ自身が独立した実体としてアプリオリに存在するわけではなく、空集合からの構成によって意味を獲得する。

第二節 数学の唯名論的基礎

フォン・ノイマンの構成は、二十世紀の数学基礎論において、数学全体を集合論のなかで再構築するという壮大な企ての、決定的な一歩であった。一九二〇年代以降、ニコラ・ブルバキ集団による数学の体系的な再構築は、すべての数学的対象を集合として定義し直すことに執着した。整数は自然数の対の同値類として、有理数は整数の対の同値類として、実数は有理数のコーシー列の同値類として、複素数は実数の対として、ベクトル空間は集合と演算の組として、関数は順序対の集合として――こうしてすべての数学的対象が、最終的には集合のみから構成されることが示された。

そして、すべての集合は、ツェルメロ=フレンケル集合論(ZF)あるいはZFCの公理から構築される。ZFC公理系は、空集合が存在するという公理(空集合公理)、対集合の存在公理、合併集合公理、冪集合公理、無限公理、置換公理、選択公理、外延性公理、正則性公理から構成される。これらの公理のうち、空集合公理は、空集合という単一の集合の存在を保証する公理である。他のすべての集合は、この空集合から、対集合の構成、合併、冪集合などの操作を反復することによって、層状に構築されてゆく。

すなわち、現代数学は、その基礎において、空集合という一つの「無」の存在を出発点として、すべての数学的構造を組み上げているのである。整数も、実数も、複素数も、ベクトル空間も、関数も、位相空間も、群も、環も、体も、すべては究極的には空集合の入れ子として理解できる。これは、数学が壮大な抽象の塔であって、その最深の地下室に住まうのは、要素を一つも持たない一個の集合――何もない一つの空虚――であることを意味している。

第三節 無から全へ ―― 数学の神秘

ここに、本書を貫いてきた問いの最終的な姿が現れる。なぜ、空集合という何もない対象から始めて、自然数を、整数を、実数を、関数を、位相を、ひいては宇宙の物理法則を記述する数学全体を、矛盾なく組み上げることができるのか。なぜ、「無」が「全」を生み出しうるのか。

この問いに対して、明確な答えを与えることは難しい。一つの可能な見方は、数学とは究極的には人間の精神が組み上げた壮大な虚構の塔であって、その塔は空集合という最も単純な仮構の対象から始まる、というものである。数学は無からなる虚構を素材として、無限の構造を編み上げ、それが偶然にも自然界の法則を見事に記述する――この事態は、ノーベル物理学賞受賞者ユージン・ウィグナーが「自然科学における数学の不合理な有効性」と呼んだ、現代の知的世界における最大の謎の一つである。

もう一つの見方は、数学は虚構ではなく、何らかの抽象的な実在を記述している、というものである。プラトン主義と呼ばれる数学哲学の立場では、数学的対象は人間の精神とは独立に存在しており、数学者はそれを発見しているにすぎないと考える。この立場からすれば、空集合から自然数を構成するという営みは、すでに存在している抽象的な秩序を再構成する作業であって、無から全が生まれるわけではない。

いずれの見方を採用するにせよ、数学が「無」を素材として「全」を生成するという事実そのものは、揺るがない。本書を通じて辿ってきた数学的な無の諸相――ゼロ、空集合、否定、無限小、特異点、Null、真空、初期対象、ホモロジーの穴――は、いずれもこの根源的な営みの異なる現れである。それぞれの無は、数学という巨大な建造物の異なる部位において、その構造を支える隅石として機能している。

本書の旅路は、ここで終わる。しかし、無をめぐる数学的な思考は、決して終わることはない。空集合の冪集合の冪集合の……という階層を辿ることによって、私たちは無限に大きな集合の宇宙を眼下に展開することができる。あるいは、新たな圏や新たな構造が発見されるたびに、そのなかで無が新たな顔を見せる。読者がこれから出会う数学的な対象や構造のなかにも、必ず無の影が住まっているはずである。その影を見出し、それが何を語っているのかを聴き取ることは、数学を学ぶという営為の、最も静謐で、最も深遠な楽しみの一つに違いない。

空集合のなかに、すべての数学が眠っている。ゼロという小さな点のうちに、宇宙を測る座標系の原点が在る。否定という論理操作のうちに、何が証明できて何ができないかを峻別する大原理が在る。無は、実に、最も豊かな存在である――そう述べることによって、本書を閉じよう。

補遺 無の数理学に向けて

本書を通じて辿ってきた、数学における無の諸相は、それぞれ異なる時代、異なる文化、異なる学問領域から生み出されてきた個別の発見であった。バビロニアの空白記号、ブラーマグプタの無、ライプニッツの無限小、カントールの空集合、ヒルベルトの存在しない数列、ゲーデルの証明できない命題、ロビンソンの超実数、ホーアのNullポインタ、量子真空のゼロ点エネルギー、初期対象、ホモロジーの穴。これらは互いに独立に発見されたが、根底において一つの主題――人間の知性が「無いもの」をいかに記号化し、いかに操作するか――を共有している。

ある意味では、数学の歴史全体は、無を扱う技術の歴史だと言ってよい。何かが「ある」ことよりも、何かが「ない」ことのほうが、しばしば数学的にはより精密な扱いを必要とする。「ある」ことは、その実例を示すだけで証明できるが、「ない」ことは、すべての可能な事例を吟味するか、矛盾を導くという間接的な方法でしか証明できない。「無」を厳密に扱うためには、論理体系の精度を極限まで高める必要がある。それゆえ、数学が無を扱う仕方の精緻さは、その時代における数学全体の成熟度の指標とすら言える。

二十一世紀の現在、数学はさらに新たな無の形態に遭遇しつつある。型理論における空型(empty type)、ホモトピー型理論における空間としての論理、量子コンピューティングにおける重ね合わせ状態のゼロ振幅、機械学習における疎なベクトル表現――これらはいずれも、本書で扱った古典的な無の概念を、新たな文脈のなかで再解釈し、再構築するものである。無の数理学は、決して完成された静的な理論ではなく、新たな数学的構造の発見とともに、絶えず展開し続ける開かれた営みである。

本書の読者がこれから出会う数学的な対象や構造のなかにも、必ず無の影が住まっているはずである。新しい代数構造を学ぶときには、そこにおける加法単位元と乗法単位元がどう振る舞うかを問うてみよ。新しい位相空間に出会うときには、そこにおける空集合の役割と、その空間に潜む「穴」の構造を問うてみよ。新しい論理体系を考えるときには、そこにおける否定と排中律が、どのような形で成立するかを問うてみよ。これらの問いに答えることによって、読者は本書で辿った無の数理学を、自身の知的探求のなかで生き生きと拡張していくことができるであろう。

最後に、本書を通じて執拗に繰り返してきた一つの主題を、改めて述べておきたい。数学は、その表面においては、複雑な公式や定理や証明の体系として現れる。しかし、その深部に降りていけば、必ず、何らかの「無」――空集合、ゼロ、否定、極限、特異点、初期対象――が、構造の隅石として座っているのが見出される。数学とは、これらの隅石のうえに組み上げられた、無からなる壮大な絨毯である。そしてその絨毯の上で、私たちの知性は遊び、想像し、新たな構造を編み続けている。読者がこの絨毯のうえで、長く豊かな知的旅を続けられることを、心より願って、本書を結ぶ。

本書の旅を共にしてくれた読者に、改めて深い感謝を表したい。数学という学問が、その厳密性ゆえに、しばしば近づきがたい印象を与えるのは事実であろう。しかし本書を通じて、数学の根底において、ゼロや空集合や否定といった「無」の諸相が、いかに豊かな思想的内実をたたえているかを、いくらかでも感じていただけたならば、著者の意図はおおむね達成されたことになる。無は、数学のなかで、最も控えめで、最も遍在的で、最も豊かな存在である。それは、構造の隅石としての役割を黙々と果たしながら、すべての数学的構造を縁の下から支えている。読者がこの「無の支配」に気づくことによって、数学全体への新たな視点を獲得されたならば、それこそが本書の最大の収穫であろう。

空集合から数学が、ゼロから座標系が、否定から証明戦略が、無限小から微積分が、特異点から関数論が、Nullから現代計算機が、量子真空から宇宙論が、初期対象から圏論が立ち上がる――これら一見無関係な多様な営為のすべてに通底するのは、人間の知性が「無いもの」を語る技法を発展させ続けてきた、という連綿たる歴史である。その歴史は、過去に閉ざされたものではなく、二十一世紀の現在もなお進行中の営みである。読者がこれから出会う数学的な探求のなかで、本書で扱った「無」の諸相が、新たな姿で立ち現れてくる瞬間を、しばしば経験されることを願っている。