無・空・零の数理構造

―― No, None, Zero が織りなす数学的宇宙 ――

あとがき 数学的「無」の彼方に ―― 神の存在証明再考

序 なぜ本書のあとがきに神の存在証明か

本書は、数学における「無」――Zero、None、No――の諸相を巡る巡礼の旅であった。空集合からすべての自然数が組み立てられ、ゼロという一点が代数構造の隅石として機能し、否定という論理操作が可能と不可能を画定する――こうした営みを順を追って辿ってきた。終章では、フォン・ノイマンによる空集合からの自然数構成を見届けることで、本書の旅程に一応の終止符を打った。ところが、その終止符を打った後にも、なお余韻のように残る一つの問いがあった。それは、「無から全が生まれる」というあの構成は、一体なぜ可能なのか、という問いである。

空集合という、要素を一つも持たない対象から始めて、自然数を経由し、整数、有理数、実数、複素数、ベクトル空間、関数空間、位相空間、群、環、体――そうしてついには宇宙の物理法則を記述する数学全体までもが、純粋に集合論的な操作の連鎖によって組み上がる。この事実は、論理的には完全に厳密であるにもかかわらず、それを直視するとき、私たちはしばしば奇妙な戦慄を覚える。なぜならそこには、「無」が「全」を生み出すという、本来矛盾的に響くはずの事態が、実際に起きているからである。

この戦慄は、実は数学の歴史を通じて、繰り返し別の言葉で表現されてきた。中世以来、神学者たちは、神が「無からの創造」(creatio ex nihilo)によって世界を産み出したと論じた。アンセルムスやトマス・アクィナスからデカルト、ライプニッツ、ゲーデルに至るまで、西洋思想史の中軸を占める思想家たちが、神の存在を論証しようと試みた。彼らの論証の多くが、無、必然性、可能性、最大性、存在といった、本書で繰り返し扱ってきた概念のうえに構築されている。それゆえ、本書のあとがきとして、神の存在証明という古典的な主題を、本書で展開した「無の数理学」の文脈のもとで再読することには、意義があると考えた。

以下では、アンセルムスの存在論的証明から始めて、トマスの五つの道、デカルトの第三省察、ライプニッツの「なぜ無ではなく何かがあるのか」、スピノザの神即自然、パスカルの賭け、カントの批判、そしてゲーデルの様相論理的存在論的証明までを順に巡る。これらの議論は、いずれも「無」をめぐる本書の主題と、深いところで共鳴している。神の存在証明という古来の問題系は、見方を変えれば、数学が「無」を扱う技法の限界と、その限界の彼方に何があるのかを問う、極めて深遠な思考実験の蓄積でもあるのである。本書のあとがきにおいて、これらの議論を再読することは、本書の本論で展開してきた数学的な無の諸相を、別の文脈から照射する試みである。

第一節 アンセルムスの存在論的証明と「最大」の逆説

十一世紀末、カンタベリーの大司教アンセルムスは、自著『プロスロギオン』(一〇七八年頃)のなかで、後世に「存在論的証明」(ontological argument)と呼ばれることになる、神の存在の論証を提示した。その骨格は驚くほど簡潔である。神とは「それより大いなるものを何ものも考えることができないもの」(id quo maius cogitari nequit)として定義される。さて、もし神が思考のうちにのみ存在し、現実には存在しないとすれば、その思考のうちなる神よりも、現実にも存在する神のほうが大いなるものとなる。なぜなら、現実の存在は、思考のなかの存在よりも、より大いなる存在様態だからである。しかしこれは、「神はそれより大いなるものを考えることができないもの」という当初の定義に矛盾する。したがって、神は思考のうちのみではなく、現実にも存在しなければならない。

この論証は、感覚的経験に依拠せず、ただ概念の分析と論理操作のみによって神の存在を導くという、極めてラディカルな構造をもつ。アリストテレスの第一原因論やトマスの五つの道のように、世界における経験的事実――運動、因果、偶然性、価値の階梯、目的論的秩序――から出発するのではなく、神という概念それ自体のなかに、その存在の必然性が含まれていると主張するのである。これは、現代数学の言葉を借りれば、ある種の「概念の閉包」――定義から論理的に必然的に従う帰結――としての神の存在の主張である。

興味深いのは、アンセルムスの論証が「最大」という概念を中心に据えているという点である。「それより大いなるものを考えることができないもの」とは、ある順序関係――「大いなる」の順序――のうえでの、いわば最大元(supremum)として神を特徴づけている。本書第二章で扱った代数的特異点としてのゼロが、加法構造のなかで「単位元」という普遍的役割を演じていたのと類似的に、アンセルムスの神は概念秩序のなかで「最大元」という普遍的役割を演じているのである。

ところがこの「最大」という概念には、本書の集合論の議論との関係で、深刻な問題が潜んでいる。十九世紀末、ゲオルク・カントールは集合論の発展のなかで、「すべての集合の集合」というものは整合的に定義できないことを発見した。なぜなら、もしすべての集合の集合Uが存在するならば、その冪集合P(U)はUよりも真に大きな濃度をもつことになり、しかしP(U)もUの要素であるはずだから、矛盾が生じる。これがいわゆるカントールの逆説である。同様の構造は、ラッセルの逆説――「自分自身を要素として含まないすべての集合の集合」をめぐる矛盾――にも現れる。

これらの逆説が示すのは、「すべての……」「最大の……」といった、何らかの全体性や最大性を直接的に対象として捉えようとする操作が、しばしば矛盾を生むという事実である。それゆえ、現代の集合論はZFC公理系のなかで、こうした全称的な対象の構成を慎重に制限している。アンセルムスの「それより大いなるものを考えることができないもの」という定義は、この観点から見ると、極めて危うい操作を含んでいる。それが論理的に整合的な対象を定義しているのかどうか自体が、疑問の余地を残しているのである。

もちろん、アンセルムスは集合論的な濃度の比較を念頭に置いていたわけではなく、神を一個の集合論的最大元として捉えていたわけでもない。彼の「大いなる」とは、存在論的・価値論的な階梯のなかでの最高位を指している。それでも、現代数学の視点から見ると、彼の議論には、「最大なるもの」を直接的に概念として捉えようとする際の、構造的な脆さが含まれている。本書第三章で論じた「空虚な真」がそうであったように、アンセルムスの存在論的証明もまた、論理の「外側」の何かに依拠しているのではないか――そうした疑念は、十一世紀のガウニロからカントを経て現代に至るまで、繰り返し提起され続けてきた。

アンセルムスの同時代の修道士ガウニロは、すでに『プロスロギオン』への反論として、興味深い類比を提示している。彼は「最も完全な島」という概念を考えてみよ、と提案する。もしアンセルムスの論証が正しければ、「最も完全な島」もまた、現実に存在しなければならないことになる。なぜなら、現実に存在する最も完全な島の方が、思考のうちにのみ存在する最も完全な島よりも、より完全だからである。しかし「最も完全な島」が現実に存在しないことは明らかである。それゆえ、アンセルムスの論証には何らかの誤りがある、というのがガウニロの議論である。これは、本書の集合論の言葉でいえば、「最大」という操作を任意の概念に適用すると不都合が生じるという、極めて現代的な問題提起であった。アンセルムスは『反ガウニロ書』のなかで、神は他のすべての概念とは異なる特殊な対象であって、ガウニロの島の類比は当てはまらない、と反論したが、この応答が十分に説得的であるかは、議論の余地を残した。

第二節 トマス・アクィナスの五つの道と必然的存在

十三世紀、ドミニコ会修道士トマス・アクィナスは、その大著『神学大全』のなかで、神の存在の証明として「五つの道」(quinque viae)を提示した。これは、アンセルムスのようにアプリオリな概念分析からではなく、世界における経験的な観察事実から出発して、神の存在へと至る五通りのアポステリオリな論証である。第一の道は運動から、第二の道は作用因から、第三の道は可能性と必然性から、第四の道は事物の階梯から、そして第五の道は目的論的秩序から、それぞれ神の存在を導く。

これら五つのうち、本書の主題である「無」と最も深く結びついているのは、第三の道、すなわち可能性と必然性からの論証である。トマスの議論はおおよそ次のように進む。世界に存在するもののなかには、存在することも存在しないことも可能なもの――偶然的存在者――が含まれている。生まれては死ぬ生命や、形成されては消滅する物質的事物がこれにあたる。さて、もし全ての存在者が偶然的であるならば、かつて何ものも存在しない時があったはずである。なぜなら、偶然的存在者は存在しない可能性を本来的にもっており、無限の時間のなかでは、その可能性が必ずいつか現実化するからである。

しかし、もしかつて何ものも存在しなかった時があったならば、無からは何も生じえないという原則により、現在においても何ものも存在していないはずである。これは現実に矛盾する。それゆえ、自身の存在を必然的にもつ存在者――必然的存在者――が、少なくとも一つは存在しなければならない。そしてその必然的存在者の系列を辿れば、最終的に他者によらずそれ自身によって必然的である存在、すなわち神に到達する、というのがトマスの結論である。

この議論の核心にあるのは、「無からは何も生じない」(ex nihilo nihil fit)という古代以来の原則と、「世界全体が偶然的でありうる」という可能性の認識の対比である。トマスは、無からの自発的な発生を否定することで、「無の絶対的な深淵」と「現実の存在」とのあいだに、決して跨ぐことのできない断絶を設定する。そして、その断絶の彼方に必然的存在者を要請するのである。

興味深いのは、本書終章で扱ったフォン・ノイマンの構成と、トマスのこの議論との対比である。フォン・ノイマンは、空集合という「無」から始めて、純粋に集合論的な操作によって、すべての自然数を、ひいてはすべての数学的対象を構成してみせた。これは、ある意味で「無からの全の発生」を、論理操作のなかで実現している。トマスの「無からは何も生じない」という原則と、フォン・ノイマンの構成は、矛盾するように見える。しかし両者を仔細に検討すれば、両者が語っているのは異なる種類の「無」と「発生」であることがわかる。

フォン・ノイマンが構成しているのは、抽象的な集合論の宇宙のなかでの形式的な対象であって、それが「現実に存在する」かどうかは、また別の哲学的問題である。空集合から1、2、3、……という自然数を構成しても、それは数学的構造としての存在であって、物理的・経験的世界のなかに新たな実体が誕生したわけではない。トマスが論じているのは、こうした抽象的構造の発生ではなく、現実の経験的世界のなかでの実体の発生である。両者は、「存在」という言葉を、それぞれ異なる水準で用いているのである。

それでも、両者のあいだには、深い構造的な響きあいがある。フォン・ノイマンが空集合という「最も貧しい対象」から「最も豊かな構造」を組み上げたように、トマスは無の深淵の彼方に必然的存在者を要請することで、世界全体の存立を可能にしようとした。両者はいずれも、「無」を直視することの困難さと、それを乗り越えるための知的な飛躍を必要とする営みである。トマスの神は、ある意味で、論理的世界全体に対する「絶対的な最初の集合」のようなものとして機能していると言える。

第三節 デカルトの第三省察 ―― 観念のなかの無限

十七世紀、近代哲学の父と呼ばれるルネ・デカルトは、『省察』(一六四一年)の第三省察において、独自の神の存在証明を展開した。デカルトの議論は、アンセルムスの存在論的証明とトマスの宇宙論的証明の中間的な性格をもつ。彼は、自分自身のうちに「無限で完全な存在者」という観念があるという経験的事実から出発し、この観念がどこから来たのかを問うことで、神の存在へと至る。

デカルトの議論はおおよそ次のようになる。私の精神のうちには、無限で完全な存在者――神――の観念がある。観念には、それ自体としての存在(形相的実在)と、それが表象する内容としての存在(表象的実在)とがある。神という観念の表象的実在は無限であり、それゆえこの観念の原因は、その表象的実在に少なくとも等しい形相的実在をもたなければならない。私自身は有限で不完全な存在者であるから、無限で完全な存在者の観念を私自身から生み出すことはできない。それゆえ、この観念の原因として、現実に無限で完全な存在者が存在しなければならない。

デカルトの議論は、しばしば批判の対象となってきた。とりわけ、観念の表象的実在と原因の形相的実在のあいだに、量的な等価関係を要求する原則――いわゆる「因果性の原則」――は、十七世紀的なスコラ哲学の遺産であって、現代の感覚からは正当化が困難である。それでもなお、デカルトの議論には、現代の数学者にとっても示唆的な要素が含まれている。

それは、有限な精神のうちに無限の観念が宿りうる、という現象に対するデカルトの驚きである。私たちは、無限という概念を、決して実際には経験することがない。私たちが具体的に数えられる量、認識できる広がり、想起できる時間幅は、すべて有限である。それにもかかわらず、私たちは無限という概念を確かに把握し、それを操作することができる。本書第五章で論じた極限の概念、第三章で扱った無限集合の濃度、第九章のホモロジーや圏論――いずれも、有限の知性が無限を扱う技法であるが、デカルトはこの「有限のなかに宿る無限」という事態そのものに、神の刻印を見たのである。

カントールが超限濃度の理論を構築するときも、彼は自分の仕事を神学的な営為と結びつけて理解していた。彼にとって、無限の階梯――可算濃度、連続濃度、より大きな濃度――を辿ることは、神の絶対無限性に近づく営みであった。デカルトと同様に、カントールも有限の精神のうちに無限の観念が宿るという事態を、単なる心理的事実ではなく、形而上学的・神学的な兆候として捉えていた。本書第三章で扱った空集合と、それを起点に構築される無限の集合論的階梯――これらの背後には、デカルトとカントールが共有していた、「有限のなかに無限が宿る」という驚異の感覚が潜んでいる。

第四節 ライプニッツの「なぜ無ではなく何かがあるのか」

十七世紀末から十八世紀初頭にかけて活動したゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツは、論理学、数学、形而上学のあらゆる分野に巨大な貢献を残した、近代最大の総合的思想家の一人である。彼の神の存在論証は、宇宙論的論証の一種であるが、その出発点となる問いの形式が、本書の主題と極めて深く共鳴する。それは、「なぜ無ではなく何かがあるのか」(Cur potius aliquid existit quam nihil?)という問いである。

ライプニッツによれば、この問いは形而上学の根本問題である。私たちは現に、何ものかが存在する世界のなかにいる。しかし、論理的には、何ものも存在しない世界――すべてが空虚である世界――もまた可能であったはずである。実際、無の方が、何かがあるよりも、存在論的に「単純」である。何かが存在するためには、その何かを成立させる根拠が必要である。それに対し、無は何の根拠も必要としない、単純な事態のように見える。それにもかかわらず、現実には何かが存在している。なぜか。

ライプニッツの答えは、十分理由律(principle of sufficient reason)に基づく。すべての事実には、それが成立するための十分な理由がなければならない。「何かが存在する」という事実にも、その十分な理由がなければならない。しかし、世界のなかの個別の存在者は、それぞれ他の存在者を理由として要求するのみであって、世界全体が存在するための究極的な理由を提供しない。それゆえ、世界そのものの外部に、世界全体の存在の理由となる存在者――必然的存在者、神――が存在しなければならない。これがライプニッツの宇宙論的論証の骨子である。

「なぜ無ではなく何かがあるのか」という問いは、その後の哲学史を通じて、繰り返し問い直されてきた。十九世紀のシェリング、二十世紀のハイデガー、ウィトゲンシュタイン――いずれも、この問いを哲学の根源的な驚異の表現として位置づけている。ハイデガーは『形而上学とは何か』のなかで、この問いを「形而上学の根本問題」と呼び、それは無の経験を経由してのみ問われうるとした。ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』のなかで、「世界がどのようにあるかではなく、世界があるという事実こそが、神秘的なものである」と述べた。

本書の集合論的な視点からこの問いを眺めるとき、興味深いことに気づく。空集合という対象は、論理的には「最も単純な集合」であって、何の構成要素も必要としない。それゆえ、もしも宇宙が「何もない」という事態を許容するならば、そこには空集合のみが存在するはずである。ところが現実は、空集合のみならず、その冪集合、冪集合の冪集合、さらには無限濃度の集合、超限濃度の集合――無数の階層が、既に存在している。この多層的な存在の階梯は、なぜそうなっているのか。空集合だけで宇宙が成り立つことも、論理的にはありえたはずなのに。

ライプニッツの問いは、こうして数学の最深部にも反響する。空集合という最低限の存在から、なぜ無限の集合論的宇宙が生成しているのか。フォン・ノイマンの構成は、その生成の論理的可能性を示すが、その生成が「現実に」起きていることそれ自体の理由は、論理操作の内部からは説明できない。空集合と空集合公理だけでは、自然数の存在が論理的に可能であることが導かれるにすぎず、それらが「現実に存在する」ことの保証は、別途、無限公理によって与えられている。「無限が存在する」という公理を、私たちが受け入れるかどうかは、究極的には数学の外部にある選択である。

第五節 スピノザの「神即自然」と数学的必然性

ライプニッツとほぼ同時代のオランダの哲学者バルーフ・スピノザは、その代表作『エチカ』(一六七七年、没後出版)のなかで、極めて独特な神の概念を展開した。彼にとって神は、世界を超越する人格神ではなく、自然そのものと同一視される無限実体である。「神即自然」(Deus sive Natura)――これがスピノザの神学のもっとも有名な定式である。

スピノザの『エチカ』は、ユークリッドの『原論』を模した「幾何学的順序」(more geometrico)で書かれている。すなわち、定義から始まり、公理、定理、証明という形式に従って体系全体が展開される。この方法論的選択そのものが、スピノザの哲学的立場を雄弁に物語る。彼にとって、世界の構造は、数学的定理が論理的必然性によって展開されるのとまったく同様に、神の本性から論理的必然性によって展開される。神の自由とは、恣意的な選択の自由ではなく、自分自身の本性に従う必然性の自由である。

スピノザの体系のなかでは、世界に偶然的なものは何ひとつ存在しない。ある事物が現に在るのは、それが在らないことが論理的に不可能だからである。この見方は、本書の終章で扱ったフォン・ノイマンの自然数構成と、構造的に深い親和性をもつ。空集合から自然数を構成する操作は、いったん空集合の存在を認めれば、論理的必然性によって展開される。1は∅から、2は∅と{∅}から、3はそれら三者から――この生成の連鎖には、いかなる恣意性もない。それは純粋な論理的必然性として展開される。

スピノザの神は、ある意味で、数学的構造そのものの神格化である。彼にとって、自然法則とは神の本性の表現であり、自然法則に従って事物が生起することは、神が自分自身の本性に従って自分自身を展開することにほかならない。これは、現代の物理学や数学が想定している、自然界の数学的記述可能性という前提と、深いところで通じあう発想である。アインシュタインがしばしば「スピノザの神」を引いたのは、こうした数学的必然性としての神を念頭に置いていたからであった。

ただし、スピノザの神は、伝統的なキリスト教の神とは大きく異なる。スピノザの神は、世界を意志によって創造したり、人間に救済を与えたりする位格神ではない。彼の神は冷徹な論理的必然性そのものである。それゆえスピノザの体系は、ユダヤ・キリスト教の伝統からは異端と見なされ、彼自身は若くしてユダヤ共同体から破門された。それでもなお、スピノザの「数学的必然性としての神」という発想は、その後の近代思想に深い影響を与え続けた。

本書の終章で見届けたフォン・ノイマンによる空集合からの自然数構成は、スピノザ的な意味での「論理的必然性による展開」の一典型として読むことができる。空集合と空集合公理を一旦受け入れれば、それ以降の自然数の生成は、いかなる恣意性も含まない論理的必然性として展開される。0は∅として、1は{∅}として、2は{∅, {∅}}として――この生成の連鎖には、神の意志による選択も、宇宙の偶然的な配置もない。それは純粋な論理の必然性である。スピノザが「神即自然」と呼んだ無限の必然性は、現代数学の最深部において、空集合からの自然数構成という極めて簡潔な操作のなかに、その縮図を見出すのである。

第六節 パスカルの賭け ―― 無限と無のあいだ

十七世紀フランスのブレーズ・パスカルは、数学者・物理学者・神学者・思想家として、近代知性の多面的な巨人であった。彼の遺稿集『パンセ』(一六七〇年、没後出版)のなかには、神の存在をめぐる、極めて独特な議論が含まれている。それは「パスカルの賭け」(le pari)として知られる、確率論的な論証である。

パスカルの議論はおおよそ次のように進む。神が存在するかしないかは、純粋な理性によっては決定できない。私たちはこの問題に関して、いずれかの側に「賭ける」ことを強いられている。さて、もし神が存在し、私たちが神を信じるならば、無限の幸福(永遠の救済)が得られる。もし神が存在し、私たちが信じないならば、無限の損失(永遠の罰)を被る。一方、もし神が存在せず、私たちが信じたとすれば、得るものも失うものもごく有限である。神が存在せず、信じなかった場合も、結果は同様に有限である。

パスカルは、この四つの場合の期待値を比較する。期待値の計算において、無限の利得は、いかに小さな確率を掛けても、有限の量を圧倒する。それゆえ、たとえ神の存在の確率が非常に低くても、信じることに賭けるほうが期待値の観点から合理的である――これがパスカルの結論である。

この議論は、確率論と意思決定理論の歴史のなかで重要な位置を占める。パスカルは、確率論の創始者の一人であり、賭けの議論はその直接的な応用である。しかし哲学的には、この議論は多くの批判を受けてきた。たとえば、神の存在の選択肢は二つだけではなく、多様な宗教的選択肢のなかから一つを選ぶ問題であるはずだ、という批判(多神問題)。あるいは、信仰は意志の選択ではなく、信じざるを得ないという必然性の経験であって、賭けによっては得られない、という批判(信仰の本性をめぐる批判)。

それでも、パスカルの議論には、本書の主題との関連で興味深い側面がある。それは、彼が「無限」と「有限」のあいだに截然たる断絶を設定し、その断絶のなかで意思決定の合理性を再構成しているという点である。本書第三章で論じた「空虚な真」や、第五章で扱った無限級数の収束理論――いずれも、無限という大きさが有限の世界に侵入してくるときの、独特な振る舞いを扱っていた。パスカルは、こうした無限の論理を、人生の最大の決断――神を信じるか否か――に応用した最初の数学者であった。

パスカル自身が、自著の別の箇所で、「無限の空間の永遠の沈黙が私を恐れさせる」と書いていることは、よく知られている。彼にとって、宇宙の無限性は、人間の有限な生にとっての絶対的な脅威であった。神への信仰は、こうした無限の恐怖からの救いとしての位置を持っていた。パスカルの賭けは、論理的な計算であると同時に、無限を直視した者の実存的な戦慄から発する祈りでもあった。本書を通じて辿ってきた数学的な無の経験が、究極的にはこのような実存的な震えに通じうるということを、パスカルの議論は示唆している。パスカル自身が数学者として確率論の創始者の一人であったという事実は、この賭けの議論の独自の重みを際立たせる。彼にとって信仰の問題は、抽象的な神学論争ではなく、確率と期待値という具体的な数学的概念のなかで考察されるべき、極めて切実で実存的な問題であった。

第七節 カントの批判 ―― 「存在は実在的述語ではない」

十八世紀末、ケーニヒスベルクの哲学者イマヌエル・カントは、その大著『純粋理性批判』(一七八一年)のなかで、それまでに提出されてきた神の存在証明を、根底から批判する議論を展開した。カントの批判は、存在論的証明、宇宙論的証明、目的論的証明のいずれをも標的とするが、なかでも存在論的証明に対する批判は、近代哲学史のなかでも最も重要な論点の一つとなった。

カントの批判の核心は、「存在は実在的述語ではない」(Sein ist offenbar kein reales Prädikat)という命題に集約される。アンセルムスやデカルトの存在論的証明は、神という概念のなかに「存在する」という性質が必然的に含まれている、と論じていた。すなわち、「神」という概念を完全に展開すれば、「神は存在する」という命題が、「三角形の内角の和は二直角である」と同じ意味で、概念分析によって導かれる、というのである。

カントはこの議論を、概念と存在の関係についての根本的な誤解に基づくものとして批判する。彼の論証はおおよそ次のようになる。たとえば、私が「百ターレル」という概念を考える。この概念に含まれる内容は、「百枚の銀貨」「特定の購買力」などである。さて、この百ターレルが私のポケットのなかに実際に存在するかしないかは、概念の内容に何らの違いももたらさない。実在する百ターレルも、可能的な百ターレルも、その「ターレルとしての概念的内容」は完全に同じである。すなわち「存在する」というのは、概念の内容を増やす実在的な述語ではなく、概念に対応する対象が現実に与えられているか否かという、メタ的な事実の主張にすぎない。

カントの議論を本書の集合論の言葉で言い直せば、次のようになる。ある集合の要素を増やす操作と、その集合の存在を主張する操作とは、論理的に異なる種類の操作である。集合{0, 1, 2}に新たな要素3を加えれば、その集合は{0, 1, 2, 3}という別の集合になる。しかし「集合{0, 1, 2}が存在する」と主張することは、その集合の要素を増やすわけではなく、それが我々の数学宇宙のなかで実際に対象として与えられている、ということを言うにすぎない。

この区別は、現代論理学のなかでも、「概念の外延」と「対象の存在」の区別として、明確に整理されている。フレーゲやラッセルらによる現代論理学の整備のなかで、存在は通常の述語とは異なる、量化子(∃)として扱われるようになった。「神は存在する」という命題は、「Gという性質を持つxが存在する」(∃x G(x))という形式で表現され、ここでの「存在する」は、概念Gの内容には含まれない、Gが空でないという外的な事実の主張として位置づけられる。

カントの批判は、存在論的証明だけでなく、宇宙論的証明や目的論的証明にも及ぶ。彼によれば、これらの証明はいずれも、最終的には「必然的存在者」という概念に依拠しており、その概念の正当性は存在論的証明と同じ操作――概念から存在を引き出す操作――を必要としている。それゆえカントは、「思弁理性」(純粋な論理的推論)によっては、神の存在を証明することはできない、と結論する。神の存在は、理論理性のではなく、実践理性の要請として――道徳法則の根拠として――措定されるべきものである、というのが彼の最終的な立場であった。

カントの批判の後、神の存在の純粋に論理的な証明という企ては、長らく沈黙を強いられた。十九世紀の哲学は、ヘーゲルの絶対精神論やキェルケゴールの実存主義など、伝統的な存在証明の枠組みを離れた、別種の神学的・哲学的な探究を展開した。本書の集合論や数学的構造の議論からすれば、カントの批判は、「数学的存在」と「現実的存在」のあいだの差異を浮き彫りにする、極めて重要な指摘として読むことができる。空集合から自然数を構成することは可能であるが、それと、自然数が「現実に存在する」という主張とのあいだには、なお越えがたい溝が残されている。

もう一つ、カントの議論には、本書の論理学的な議論との関連で重要な含意がある。それは、「概念」と「対象」の区別である。カントによれば、概念とはあくまで思考の単位であって、それが対応する対象を持つかどうかは、概念そのものから決定することはできない。「百ターレル」という概念は、私のポケットのなかの百ターレルにも、私の想像のなかの百ターレルにも、同じように対応しうる。概念の同一性と、対象の存在性とは、別個の事柄なのである。

この区別は、現代の集合論や圏論のなかで、極めて重要な役割を果たしている。たとえば、「すべての群の集合」という概念は、私たちの言語のなかで定式化することができる。しかし、この概念に対応する対象――すなわち、すべての群を要素として持つ集合――は、ZFC公理系のなかでは存在しない(それは「集合」ではなく「真クラス」をなす)。同様に、「すべての集合の集合」も、概念としては定式化できるが、対象としては存在しえない(カントールの逆説)。これらの例は、カントの「概念と存在の区別」が、現代数学のなかでも極めて精緻な形で生きていることを示している。アンセルムスやデカルトの存在論的証明が依拠していた、「概念の内容のなかから存在を引き出す」という操作は、こうした集合論的逆説の発見以降、より一層、警戒を要する操作として理解されるようになった。

第八節 ゲーデルの様相論理的存在論的証明

二十世紀において、神の存在論的証明は、思いがけない形で復活を遂げた。それを成し遂げたのは、本書第四章で扱った不完全性定理の発見者、クルト・ゲーデル自身であった。ゲーデルは生前、神の存在の様相論理的証明を、ノートのなかに書き留めていた。彼自身はこの証明を公開しなかったが、彼の死後、遺稿のなかから発見され、一九八七年以降、論理学者たちのあいだで広く議論されることになった。

ゲーデルの証明は、ライプニッツの存在論的証明の現代的な再構成である。彼は様相論理――「可能である」「必然である」といった様相演算子を含む論理体系――を用いて、極めて精緻な形でアンセルムス的な議論を再定式化した。彼の議論はおおよそ次のように進む。まず、「神的属性」(positive property)という概念を導入する。神的属性とは、神にふさわしい完全な性質のことである。次にいくつかの公理を立てる。たとえば、神的属性の必然的な帰結は再び神的属性であること。あるいは、「神」は「あらゆる神的属性をもつ存在」として定義されること。

これらの公理から、様相論理の規則に従って、まず「神は可能的に存在する」(神の存在は論理的に矛盾しない)が導かれる。次に、「神の本質は神の存在である」(神の存在は必然的である)が導かれる。これら二つの主張を組み合わせると、様相論理のS5体系の枠内で、「神は必然的に存在する」(したがって現実に存在する)が結論される。様相論理のS5体系では、「可能的に必然的なものは、現実に存在する」という規則が成立するからである。

ゲーデルの証明の構造は、極めて巧妙である。それは、アンセルムスの直観的な議論を、現代論理学の精密な道具立てによって、形式的に有効な論証へと洗練させている。実際、二〇一三年には、コンピュータによる定理証明によって、ゲーデルの証明の論理的妥当性が機械的に検証された。すなわち、ゲーデルの掲げる公理を仮定するならば、神の必然的存在は論理的に演繹可能である、という事実は、機械的にも確認されているのである。

ただし、これでゲーデルが神の存在を証明したと言えるかというと、なお問題は残る。論理的妥当性は、公理の真理性とは別の問題である。ゲーデルの証明が依拠する公理――特に「神的属性」という概念や、神的属性の閉包性についての公理――が、現実において妥当であるかどうかは、論理操作の内部からは決定できない。カントの批判は、この点で依然として有効である。ゲーデルが示したのは、「もし特定の公理を受け入れるならば、神の存在は論理的に必然である」という条件付きの命題であって、無条件に神の存在が証明されたわけではない。

興味深いのは、ゲーデル自身が、自分の不完全性定理と、この存在論的証明とのあいだの緊張関係を、自覚していたであろうという点である。不完全性定理は、十分に強力な形式体系のなかには、その体系の規則に従っては真偽を決定できない命題が存在することを示していた。ゲーデルの存在論的証明は、ある特定の公理体系のなかでは神の存在が決定可能(しかも必然的に真)であることを示している。しかしこの証明の前提となる公理が、私たちが採用すべき正しい公理であるかどうかは、別の問題である。本書第四章で論じた、「答えられない問い」というゲーデル的なテーマは、神の存在をめぐる議論にも、深く影を落としている。

ゲーデルは敬虔なキリスト教徒であった。彼は晩年、論理学の論文だけでなく、神学的・宗教的な思索を多く残している。彼にとって数学とは、神が創造した秩序を解読する営みであり、不完全性定理は、人間の知性の限界と、その限界の彼方に存在するより大いなる知性――神の知性――を指し示す事実であった。ゲーデルの存在論的証明は、彼自身の宗教的確信を、論理学者としての厳密さで再定式化しようとした、晩年の知的営為であった。

ゲーデルの存在論的証明をめぐっては、二十一世紀に入ってからも興味深い展開が続いている。コンピュータによる定理証明の発展に伴い、自動推論システムを用いてゲーデルの公理系を様々な形で変奏し、その論理的含意を機械的に探究する試みが行われている。これらの研究は、神の存在証明という千年来の問題系を、最先端の論理学・計算機科学の道具立てによって再検討するという、極めて現代的な営為である。アンセルムスの直観に始まり、ライプニッツの精緻化を経て、ゲーデルによる現代的再構成に至り、そして二十一世紀のコンピュータ証明によって機械的に検証される――この長い知的系譜は、人間の論理が「無限なるもの」と「絶対的なるもの」とを把握しようとする、絶え間ない営みの記録である。

第九節 数学的プラトニズムと神

二十世紀以降の数学哲学のなかで、極めて広く受け入れられている立場の一つに、数学的プラトニズム(mathematical platonism)がある。これは、数学的対象――数、集合、関数、図形、構造――が、人間の精神や物理的世界とは独立に、客観的に存在しているという立場である。プラトニストにとって、数学者は数学的対象を「発明」しているのではなく、「発見」している。数学的真理は、私たちが知るか知らないかにかかわらず、抽象的世界のなかですでに成立しているのである。

数学的プラトニズムは、デカルトやライプニッツの伝統と、深い親和性をもつ。彼らにとって、数学的真理は神の知性のうちに永遠に存在し、人間の数学者はその一部を発見していくのであった。中世以来、数学は神学の一部、あるいは神学への準備段階として位置づけられてきた。「神は数学者である」という比喩は、ガリレオからアインシュタインに至るまで、繰り返し用いられてきた。本書終章で扱った、空集合から自然数を構成するという営みも、ある意味でこの伝統のなかに位置づけられる。それは、神が世界を「無からの創造」によって産み出したという神学的観念の、数学的な反復である。

二十世紀のクルト・ゲーデルは、数学的プラトニストの代表的な論者であった。彼にとって、集合論の宇宙――フォン・ノイマンの累積階層によって組み上げられる集合の階層全体――は、客観的に存在する数学的実在であった。連続体仮説の独立性をめぐる議論のなかで、ゲーデルは、集合論の標準公理(ZFC)から決定できない命題があるとしても、それは集合論の宇宙のなかで何らかの真偽を持っているはずだ、と主張した。私たちが現在の公理から決定できないということは、私たちの公理化が不完全であることを意味するのであって、命題自体の真偽が不確定であることを意味するのではない、というのである。

こうした数学的プラトニズムは、神の存在をめぐる議論と、しばしば深く結びつく。なぜなら、人間の精神とも物理的世界とも独立に存在する数学的実在というものを認めるならば、その実在を支える「場所」あるいは「原因」として、何らかの絶対的な知性を想定したくなるからである。アウグスティヌスが論じたように、数学的真理は永遠不変であり、可滅的な人間の精神を超越している。それゆえ、数学的真理の永遠の住処として、永遠の神の知性が要請される、という議論は、中世以来繰り返し提出されてきた。

もちろん、数学的プラトニズムは必ずしも有神論を含意するわけではない。多くの現代の数学的プラトニストは、無神論ないし不可知論の立場をとっている。彼らにとって、数学的実在は神なしに存在しうる。しかしそれでも、「人間の精神からも物理的世界からも独立な、客観的な真理の領域」というプラトニズムの想定は、伝統的な神学的世界観と構造的に類似している。それは、「世俗化された神」とでも呼びうる、ある種の絶対的真理の領域への信念なのである。

これに対して、数学的プラトニズムを否定する立場――形式主義、直観主義、構成主義――は、数学を人間の知的活動の所産として位置づける。フォーマリズムにおいては、数学とは、特定の記号操作の規則に従ったゲームにすぎない。直観主義においては、数学的対象は、それを構成する精神的活動の所産である。これらの立場は、数学から「神学的」な余韻を取り去り、数学を人間の有限な営みのなかに閉じ込めようとする。本書のフォン・ノイマン構成も、こうした視点からは、神学的含意を持つ「無からの創造」ではなく、純粋に形式的な記号操作の連鎖として、脱神話化されて理解される。

いずれの立場をとるにせよ、本書で辿ってきた数学的な「無」の諸相と、神の存在をめぐる議論とのあいだには、構造的な対応関係が確かに存在する。空集合から自然数を組み上げるフォン・ノイマンの構成は、神からの世界の創造の数学的アナロジーとして読むこともできるし、純粋に形式的な記号操作として読むこともできる。どちらの読みを採用するかは、究極的には、数学の本性についての各人の哲学的選択に依存している。

二十世紀後半以降、数学的プラトニズムをめぐる議論は、新たな展開を見せている。圏論やトポス理論の発展は、数学的対象の存在を、固定された一個の宇宙――集合論的宇宙――のなかでの存在ではなく、特定の圏や特定のトポスのなかでの構造的役割として理解する視点を提供している。この視点からすれば、数学的存在は、唯一絶対の意味で「ある」のではなく、特定の文脈・特定の構造のなかでの相対的な存在として理解される。本書第九章で扱った圏論的な「初期対象」――集合の圏では空集合、群の圏では自明群――が、それぞれの圏のなかで「無」の役割を担っているという事実は、こうした多元的な存在観の典型例である。

こうした多元的な存在観は、神の存在をめぐる伝統的な議論にも、新たな視角を提供する。「神は存在する」という命題が、特定の文脈・特定の概念体系のなかでの存在主張なのか、それとも文脈を超えた絶対的な存在主張なのか――これは、現代の宗教哲学が直面している中心的な問題の一つである。本書を通じて辿ってきた数学的な無の多面性――それぞれの構造のなかで異なる役割を果たす無――は、こうした神学的な議論にも、新鮮な示唆を提供しうるかもしれない。

第十節 ヴィトゲンシュタインの「語りえぬもの」

二十世紀の論理学と言語哲学に巨大な影響を与えたルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは、その若き日の主著『論理哲学論考』(一九二一年)において、神について語ることの限界を、極めて鋭く指摘した。彼の有名な末尾の命題――「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」(Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen)――は、神の存在をめぐる伝統的な論証の試みすべてに対する、根本的な疑念の表明であった。

ヴィトゲンシュタインによれば、有意味に語りうるのは、世界のなかの事実についてのみである。「机のうえにコップがある」「明日は雨が降るだろう」「水は水素と酸素からなる」――こうした命題は、世界の特定の事態を描写しており、その事態が成立するか否かによって真偽が決まる。これに対して、「神は存在する」「世界には意味がある」「人生には目的がある」といった命題は、世界のなかの特定の事態を描写しているのではなく、世界全体の意味や根拠を問うているのであって、有意味な命題の枠を踏み越えている。

これは、神の存在を否定する議論ではない。むしろ、神の存在を肯定したり否定したりすることの両方が、有意味な言語の枠組みのなかでは不可能だ、という主張である。ヴィトゲンシュタインは、神秘的なもの、価値の世界、倫理――これらの領域は、それ自体としては実在しているかもしれないが、それについて語ろうとすると言語は破綻する、と論じた。彼の言う「語りえぬもの」とは、無意味なものではなく、むしろ言語の限界の外にある、より深い意味の領域を指していた。

ヴィトゲンシュタインの議論は、本書の主題と深く呼応する。本書で扱ってきた数学的な「無」――空集合、ゼロ、否定、特異点――は、いずれも厳密に定義された対象であり、それについて私たちは正確に語ることができる。しかし、それらの対象が「なぜ存在するのか」「それらの存在が何を意味するのか」という問いに踏み込むとき、私たちは数学の言語の限界に達する。空集合は、論理的にはZFC公理系のなかで定義されるが、なぜZFC公理系を採用するのか、なぜ数学が宇宙を記述するのに有効なのか、といった問いは、数学の内部からは答えられない。

ヴィトゲンシュタイン後年のは、『哲学探究』のなかで、初期の立場をある程度修正した。言語の意味は、その「使用」のなかにあるという立場をとり、宗教的・倫理的な言語もまた、それぞれ固有の文脈のなかで有意味に機能していることを認めるようになった。それでも、「論理の限界の外側にあるもの」を直接的に対象化することの困難さについての彼の指摘は、生涯にわたって維持された。

本書で展開した数学的な無の諸相を、最終的にどう位置づけるかは、ヴィトゲンシュタイン的な慎重さを要する問題である。空集合から全数学が構成されるという事実を、神の創造のアナロジーとして読むこともできる。しかし、そうした読み方は、数学の言語の限界を踏み越えて、語りえぬ領域に踏み込むことを意味する。本書のあとがきとして神の存在証明を辿ってきた私たちは、最終的には、これらの証明が指し示す対象――もしそのような対象が存在するならば――が、論理の言語の彼方にあることを認めなければならない。

中世の神学者たちが、神の本性を論じるために動員した概念装置――必然性、可能性、無限、最大、自存性、単純性、永遠――は、現代数学のなかで、それぞれ異なる形で再生している。必然性と可能性は様相論理として、無限はカントールの超限濃度として、最大性は冪集合の階層として、自存性は初期対象として、単純性はゼロ対象として、永遠性は時間的でない数学的真理として。これらの概念は、神学から数学へと流れ込み、その厳密化を経て、現代の知的世界の基底を形成している。本書で辿った無の数理学は、こうした神学から数学への大いなる流れの、一つの局面の素描であった。

結 無から全へ、再び

以上、アンセルムスからゲーデルまで、神の存在証明をめぐる主要な議論を、本書の主題である「無の数理学」の文脈のもとで再読してきた。これらの議論はそれぞれに精緻であり、それぞれの時代の知的最高水準を示すものであった。しかし、それらすべてに共通する一つの感覚が、本書の旅程と響きあっているように私には思われる。それは、有限の知性が無限を、存在が無を、そして全が無の彼方を覗き込もうとするときの、独特な眩暈である。

空集合から自然数を構成するという、本書終章で見届けた営みは、論理的には完璧に整合的である。しかしそれを直視するとき、私たちは「なぜ無から全が生まれうるのか」という、究極的には説明されない驚異に直面する。これは、ライプニッツが「なぜ無ではなく何かがあるのか」と問うたときと、同じ驚異である。アンセルムスが「それより大いなるものを考えることができないもの」と神を定義したとき、トマスが必然的存在者を要請したとき、デカルトが有限の精神に宿る無限の観念を見出したとき――いずれの場合も、彼らは同じ眩暈に直面していた。

近代以降、カントの批判によって、純粋に論理的な神の存在証明は、その有効性を疑問視されるようになった。ゲーデルの様相論理的な再構成によっても、その有効性は条件付きのものとどまっている。それゆえ、本書のあとがきでこれらの証明を再読することは、神の存在を論理的に確立するためではない。むしろ、これらの古典的な議論が、本書で辿ってきた数学的な無の諸相と、深いところでどのように共鳴しているのかを、確認するためである。

数学が「無」を扱う技法は、究極的には、人間の知性が無限・絶対・必然といった超越的な概念に触れる技法でもある。空集合という最も貧しい対象から、無限の集合論的階層が組み上がる。ゼロという一点から、座標系の原点と数論の素数分布が紡ぎ出される。否定という単純な操作から、ゲーデルの不完全性と論理の限界が現れる。これらはいずれも、有限の言語と概念が、それ自体の限界を内側から指し示している例である。

神の存在証明は、こうした有限と無限、内部と外部、概念と存在のあいだの境界線を、数学とはまた別の角度から探究してきた営みである。両者は方法論を異にし、結論を異にする。しかしいずれも、「人間の知性が、自分自身を超越するものに、いかに触れうるか」という、共通の根本問題を扱っている。本書のあとがきとして神の存在証明を辿ってきたのは、この共通の根本問題への、別の角度からの照射を試みるためであった。

最後に、本書全体を貫いてきた一つの感覚を、改めて述べておきたい。空集合から自然数が組み上がるという事実は、論理的には説明可能である。しかしその事実が、私たちの世界のなかに「現に成立している」ということは、究極的には驚異の対象である。なぜZFC公理系が整合的なのか。なぜ数学が物理世界を記述しうるのか。なぜ私たちは、こうした驚異を理解しうる知性をもっているのか。これらの問いは、数学の内部からは答えられない。それらは、ヴィトゲンシュタインが言うところの、語りえぬ領域に属している。

私たちにできるのは、ただ、これらの驚異の前で立ち止まり、それを驚異として認めることだけである。空集合のなかには、すべての数学が眠っている。ゼロという小さな点のうちに、宇宙を測る座標系の原点が在る。否定という論理操作のうちに、何が証明できて何ができないかを峻別する大原理が在る。そして、これらすべての背後には、なお説明されぬ無限の彼方が、静かに広がっている。読者が本書を通じて、この彼方の気配をいくらかでも感じ取られたならば、著者の意図はおおむね達成されたことになる。無は、実に、最も豊かな存在である――そう述べることを、もう一度繰り返すことによって、本書のあとがきを閉じることとしよう。

最後に、もう一言だけ付け加えることを許していただきたい。本書のあとがきで辿ってきた神の存在証明の系譜は、それぞれの時代の最高の知性が、人間の理解の極限において、何を見たのかの記録である。アンセルムス、トマス、デカルト、ライプニッツ、スピノザ、パスカル、カント、ゲーデル、ヴィトゲンシュタイン――彼らはみな、数学者であると同時に思想家であり、論理に厳密でありつつ、論理の彼方に向かって視線を投げかけることを、止めなかった。本書で扱った数学的な無の諸相と、彼らの神学的・形而上学的な思索とは、決して別個の営みではなく、人間の知性が「全」と「無」のあいだに立って、その両極を見渡そうとする、同じ大いなる営みの異なる現れである。読者がこの大いなる営みの末席に連なって、自身の知的探求を続けていかれることを、本書を閉じるにあたり、心より願ってやまない。