無・空・零の数理構造

―― No, None, Zero が織りなす数学的宇宙 ――

第九章 カテゴリ論とトポロジー ―― 構造としての「無」

二十世紀後半以降の数学において、特定の数学的対象を扱うことから、対象と対象のあいだの関係――すなわち射(morphism)――を中心に据えて構造を考察する方法論が、急速に勢いを増してきた。圏論はこうした方法論の代表的な理論であり、対象と射からなる圏という抽象的な構造のなかで、数学全体を再記述しようとする試みである。本章では、圏論およびトポロジーの観点から、構造としての「無」がいかに位置づけられるかを考察する。

第一節 初期対象と終対象 ―― 圏論的なゼロ

圏論において、対象0(ゼロ)と1(イチ)の概念は、極めて一般的な形で抽象化される。圏Cにおける初期対象(initial object)とは、Cの任意の対象Xに対して、0からXへの射がちょうど一つだけ存在するような対象0のことである。終対象(terminal object)は逆に、Cの任意の対象Xから1への射がちょうど一つだけ存在するような対象1のことである。

集合の圏Setにおいては、初期対象は空集合∅、終対象は要素一つの集合{∗}である。空集合から任意の集合への関数は、対応を指定する必要がないために、唯一通りに定まる空関数である。すなわち、空集合は集合の圏の初期対象として、すべての集合を「眼下に見下ろす」普遍的な発射点となる。一方、要素一つの集合は終対象として、すべての集合からの関数を一意に受け取る、最終的な収束点となる。

初期対象と終対象は、圏ごとにその具体的な実体は異なるが、構造的な役割としては普遍的に定義される。群の圏Grpでは、自明群(要素が単位元のみからなる群)が初期対象であり、また終対象でもある。位相空間の圏Topでは、空集合が初期対象であり、要素一つの空間が終対象である。これらの例を通じて、空集合や自明な群といった「無」あるいは「ほとんど無」の対象が、圏ごとに普遍的な役割を担っていることが見て取れる。

注目すべきは、圏のなかには初期対象と終対象が一致するものがある、という事実である。ベクトル空間の圏Vectでは、零ベクトル空間(要素が零ベクトルのみからなる空間)が初期対象であり同時に終対象でもある。このような対象を零対象(zero object)と呼び、零対象を持つ圏を「零対象を持つ圏」あるいは「点付き圏」などと呼ぶ。零対象は、加法群や加群の圏など、線形代数的な性格を持つ圏に共通して現れる構造であって、これらの圏のなかでは、ゼロという「無」の対象が中央に居場所を持っている。

第二節 ホモロジー群 ―― 穴を数える代数

位相幾何学において、図形の「穴」の数を代数的な構造として捉える理論が、ホモロジー理論である。ある位相空間Xに対して、整数係数のホモロジー群Hₙ(X; Z)が各次元nについて定義され、これらの群は空間Xの「n次元の穴」の構造を反映する。

最も直観的な例は、円周S¹である。円周には穴が一つあり、これは一次元のホモロジー群H₁(S¹; Z)が整数全体の群Zと同型であることに対応する。球面S²では、穴の構造が異なり、二次元のホモロジー群H₂(S²; Z)がZと同型となる。トーラス(穴のあいた浮き輪)では、一次元のホモロジー群がZ²となり、これは二つの独立したループ(メリディアンと縦方向のループ)に対応する。

ここで興味深いのは、穴という「物質が存在しない場所」が、ホモロジー群という代数的な構造として明確に定式化される、という事実である。穴は、確かにそこには「何もない」が、その「何もない」ことが、図形全体の形状を決定づける本質的な情報を担っている。トーラスがバスケットボールと同じ形ではなく浮き輪の形をしているのは、トーラスには穴が一つあるからであって、その穴の存在が、トーラスの位相的な同一性を決定している。

ホモロジー理論は、二十世紀のはじめにアンリ・ポアンカレによって創始され、エミー・ネーター、ハインツ・ホップ、サミュエル・アイレンバーグらによって精密化された。現代位相幾何学の基本ツールとして、また代数幾何学、微分幾何学、表現論など、数学の多様な分野で広く用いられている。穴という「無」を、群という「数」の構造として捉えるホモロジー理論は、構造としての無が、いかに数学全体に深く浸透しているかを最も鮮やかに示す例である。

第三節 結び目理論 ―― ほどけない「無」

位相幾何学のなかで、もう一つの興味深い「無」の例は、結び目理論において現れる。結び目とは、三次元空間に埋め込まれた円周の像であって、自分自身と交わらないものをいう。結び目の最も単純な例は、輪ゴムのような単純な円――結び目理論で言うところの「自明な結び目」(unknot)――である。これは、滑らかな変形によって平面上の円に戻すことができる。

ところが、結び目のなかには、いかに変形しても自明な結び目に戻すことのできないものがある。三葉結び目(trefoil knot)は、その最も単純な例であって、いくらほどこうとしても、自明な結び目に変形することはできない。問題は、ある結び目が「ほどけない」ことを、いかにして数学的に証明するか、である。これは「ほどけない」という不可能性、すなわちnoの証明であって、本書第四章で扱った不存在の証明と同じ種類の論理的挑戦である。

結び目のほどけなさを証明するためには、結び目に対して何らかの不変量――変形によって変わらない性質――を割り当て、自明な結び目とは異なる値を持つことを示せばよい。結び目群、ジョーンズ多項式、コンウェイ多項式、HOMFLY多項式など、多様な結び目不変量が考案されてきた。たとえばジョーンズ多項式は、自明な結び目に対しては1を返し、三葉結び目に対しては-t⁻⁴+t⁻³+t⁻¹と異なる値を返すから、両者が異なる結び目であることが証明される。

結び目理論は、「ほどけない」という不可能性、すなわち変形による同一視の限界を厳密に定量化する理論である。これは、第四章で考察した不存在の証明という論理的なnoが、位相幾何学のなかで具体的な代数的不変量として実装された例とみなすことができる。「できない」ということを、ある計算可能な代数構造の差異として捉え直す――これは、現代数学が無や不可能性を扱う際の、最も洗練された手法の一つである。

第四節 随伴と普遍性 ―― 無の遍在

圏論の最も精緻な概念の一つに、随伴(adjunction)がある。これは、二つの圏のあいだの関手関係を、一定の普遍的性質によって特徴づける構造である。随伴の概念は、自由対象の構成、極限と余極限、テンソル積、関数空間など、数学のあらゆる場所で現れる。そして、こうした随伴の構造のなかで、しばしばゼロ対象や空集合といった「無」が、自然な役割を担っていることが見て取れる。

たとえば、忘却関手(群を集合とみなす関手)と自由関手(集合から自由群を構成する関手)は、互いに随伴の関係にある。空集合に対する自由群は、自明群(単位元のみからなる群)である。すなわち、空集合という集合論的な無は、群論の世界では自明群というほぼ無に対応する。これは、随伴の普遍性が、無というものを圏のあいだで矛盾なく翻訳する仕組みとして機能していることの一例である。

第五節 トポスと内部論理

圏論のさらに精緻な発展として、トポスの理論がある。トポスとは、有限極限と冪対象を持つ圏であって、集合の圏が満たす多くの構造的な性質を一般化したものである。各々のトポスは、それ自身の「内部論理」――その世界観のなかで成立する論理体系――を持つ。集合の圏のトポスにおける内部論理は古典論理(排中律が成り立つ論理)であるが、他のトポスでは、しばしば直観主義論理(排中律が一般には成り立たない論理)が内部論理として機能する。

トポスのなかには、初期対象(圏論的な空集合に相当する対象)と部分対象分類器(真理値を一般化した対象Ω)が存在し、これらの相互関係から、そのトポス独自の論理が紡ぎ出される。すなわち、各トポスにおいて「無」は、初期対象として、また偽(false)という真理値Ωの極小元として、二重に位置づけられている。古典集合論におけるゼロと偽が、より一般的な構造的役割として、トポスのなかで再構築されているのである。

トポス理論は、ローヴェアやティアニーらによって一九六〇年代以降に発展させられ、グロタンディークの代数幾何学から導かれた幾何的トポスや、構成的数学のための実効トポスなど、多様な応用が見出されている。これらの応用において、各々のトポスにおける「無」――初期対象――は、そのトポスの構造的な特性を反映する、特異な対象として現れる。トポス理論は、無というものが、固定された一個の概念ではなく、構造ごとに異なる姿を取りうる、極めて多面的な存在であることを示している。

圏論とトポロジーが提供する視点は、ゼロや空集合や穴といった具体的な無の事例を、より一般的な「構造としての無」として捉え直す枠組みを与える。初期対象、零対象、自明群、ホモロジー群の生成元、結び目の不変量、トポスの初期対象――これらはいずれも、それぞれの圏や構造のなかで、無が果たす普遍的な役割の異なる現れである。次章では、本書の総括として、空集合からすべての自然数を構成するという、フォン・ノイマンの古典的な構成を辿り、無から全が生成される数学の壮大な企てを再確認する。