無・空・零の数理構造

―― No, None, Zero が織りなす数学的宇宙 ――

第六章 解析学におけるNoとZero ―― 特異点と極

解析学のなかには、ゼロという数が、極めて多面的な役割を担う場面が幾つもある。関数の値がゼロとなる点、関数の値が定まらない点、関数の値が無限大に発散する点――これらはいずれも、関数の振る舞いを理解するうえで決定的な情報を担う特別な点である。本章では、関数論および複素解析の枠組みのなかで、ゼロと「値の不在」が織りなす豊かな景観を巡る。

第一節 零点 ―― 関数が消える場所

関数f(x)に対して、f(x₀)=0となるような点x₀を、関数fの零点(zero)と呼ぶ。零点は、関数のグラフがx軸と交わる点であり、また方程式f(x)=0の解でもある。零点という単純な概念は、しかし、関数の本質的な性質を解読するうえで極めて重要な情報を提供する。

代数方程式の理論において、零点は方程式の解と同義である。多項式P(x)=aₙxⁿ+……+a₁x+a₀の零点は、多項式方程式P(x)=0の解であって、代数学の基本定理によれば、複素数体上では零点はちょうどn個存在する(重複度を込めて数える)。各零点x₀において、P(x)は(x-x₀)を因数として持つ。複素数体は、こうしてあらゆる多項式の零点を完全に「捕捉」することのできる代数的閉体として、その地位を保証されている。

零点の重複度(multiplicity)という概念もまた重要である。多項式P(x)が(x-x₀)^kを因数として持ち、(x-x₀)^(k+1)を持たないとき、x₀をk位の零点という。一位の零点では関数のグラフがx軸を貫通するが、偶数位の零点ではグラフがx軸に接して跳ね返り、奇数位の零点では貫通する。零点の単なる位置のみならず、そこでの「ゼロへの近づき方の速さ」までもが、関数の局所的な振る舞いを規定する情報として機能している。

第二節 極と特異点 ―― 値が定まらない点

関数のなかには、ある点で値が定義できないものがある。たとえばf(z)=1/zは、z=0において値が定まらない。z=0に近づくにつれてf(z)の絶対値は無限大に発散していく。このような点を、関数の特異点(singularity)と呼ぶ。零点が「値がゼロになる点」であるのに対し、特異点は「値が定まらない、あるいは無限大に発散する点」である。両者は、関数の振る舞いの両極を成す対照的な特殊点である。

複素解析において、特異点はその性質に応じて細かく分類される。最も穏やかなものは「除去可能な特異点」(removable singularity)であって、これは関数がその点では定義されていないが、適切な値を補えば連続的に拡張できる場合である。たとえばf(z)=(sin z)/zはz=0で定義されないが、極限値が1であるから、f(0)=1と定義することで関数を連続的に拡張できる。除去可能な特異点は、いわば「穴埋め可能な無」であって、関数の本質的な複雑さを反映するものではない。

次に「極」(pole)と呼ばれる特異点がある。これは1/zのz=0のように、関数がその点で無限大に発散する場合である。より厳密には、関数f(z)が点z₀の近くで(z-z₀)^(-k)程度の発散を示すとき、z₀をk位の極という。極においては、関数の値は文字通り「存在しない」が、その近傍における振る舞いは比較的単純で、(z-z₀)の負べきの和(ローラン展開の主要部)として完全に記述できる。

最も複雑なものは「真性特異点」(essential singularity)であって、これはe^(1/z)のz=0のように、関数の値が点に近づく経路によって全く異なる振る舞いを示す場合である。ピカールの大定理は、真性特異点の周辺で関数は、せいぜい一個の値を除いてあらゆる複素数値を無限回とるという、極めて野放図な振る舞いを示すことを述べている。真性特異点は、解析関数のなかで「制御不能な無」として、関数論の最も奥深い領域に住まう特殊な点である。

第三節 ゼータ関数とリーマン予想

関数の零点と、解析学の応用との関係を最も劇的に示している例は、リーマンのゼータ関数ζ(s)とリーマン予想であろう。ゼータ関数は、複素数sを変数として、無限級数1+1/2ˢ+1/3ˢ+……として定義され(適切な解析接続を経てs=1以外のすべての複素数に拡張される)、素数の分布と密接に関係する関数である。

ゼータ関数の零点は、二種類に分類される。一つは「自明な零点」と呼ばれる、負の偶数(-2、-4、-6、……)における零点であって、これは関数の関数等式から比較的容易に導かれる。もう一つは「非自明な零点」と呼ばれる、複素平面の臨界帯(実部が0と1のあいだの領域)における零点であって、その正確な分布は素数の分布と深く絡み合っている。

リーマンが一八五九年に提出した予想は、すべての非自明な零点が、実部1/2の臨界線上に存在するというものであった。この予想は、提出から百六十年以上経った現在も解決されておらず、現代数学最大の未解決問題として、ミレニアム懸賞問題の一つにも選ばれている。リーマン予想が真であれば、素数の分布に関する精密な評価が可能になり、整数論および解析数論のなかの数多くの結果が劇的に改善される。

リーマン予想において印象的なのは、関数の零点という、それ自体は「値がゼロになる点」という単純な概念が、整数論の最深部、すなわち素数という「数の原子」の分布を支配する根本構造と、これほどまでに緊密に結びついているという事実である。零点の位置という幾何学的・解析的な情報のなかに、数論の構造そのものが暗号化されているのである。ゼロという見かけ上は単純な値が、関数論を経由することによって、宇宙的な情報量を担う特異な点へと変貌する――これは数学の最も驚嘆すべき構造の一つであって、無というものが、いかに豊かで深遠な内容を抱えうるかを、最も雄弁に物語る現代数学的な証言となっている。

第四節 留数定理 ―― 特異点が積分を支配する

複素解析において、関数の特異点が果たす中心的な役割を最も鮮やかに示しているのが、コーシーの留数定理である。複素関数f(z)が、ある領域のなかで有限個の極を持つほかは正則であるとき、その領域を囲む閉曲線に沿った積分の値は、内部に含まれる極における留数の総和の二πi倍に等しい。すなわち、複素積分という大域的な量が、極という有限個の局所的な特異点における留数の総和という、極めて簡潔な形で計算される。

留数定理の含意は深い。それは、関数の「値が定義されない点」、すなわちノーバリュー(値の無)が、関数の大域的な振る舞いを完全に支配しているということである。穏やかに振る舞う領域における関数の値は、特異点におけるごく局所的な情報――留数――によってすべて決定される。「無」が「全」を決定するという、本書の中心的な主題が、ここでも鮮やかに現れている。

留数定理は実関数の積分計算にも応用される。たとえば1/(1+x²)という実関数の実数全体での積分は、複素関数1/(1+z²)を考え、その上半平面における極(z=i)の留数を計算することで、πという値が得られる。これは、実関数の振る舞いが、複素平面に拡張されたときの特異点の構造によって、簡潔に説明されることを示している。実数の世界に閉じこもっていれば見えない構造が、複素数という拡張された世界に出ることで、突然透明な姿を現す――これは複素解析の驚異の一つである。

第五節 モジュライ空間と退化点

代数幾何学のなかには、モジュライ空間という、ある種の代数的・幾何的対象を分類する空間が登場する。たとえば、種数gの複素曲線(リーマン面)の同型類を分類するモジュライ空間や、楕円曲線のモジュライ空間といった対象が、二十世紀以降の代数幾何学の中心的な研究対象となってきた。これらのモジュライ空間のなかには、しばしば「退化点」あるいは「特異点」と呼ばれる、対象が縮退して通常の性質を失う点が存在する。

退化点においては、本来は別個の対象として区別されるべきものが、極限において互いに重なり合ったり、対象自身の構造が崩れたりする。たとえば楕円曲線のモジュライ空間において、判別式がゼロになる点では、楕円曲線が特異点を持つ三次曲線へと退化する。退化点は、ある意味でモジュライ空間における「ゼロ」あるいは「無」の点であって、滑らかな部分を取り去った残余として、空間の境界的な性格を担っている。

興味深いことに、こうした退化点の周辺における対象の振る舞いは、しばしばモジュライ空間全体の理解にとって決定的な情報を提供する。退化点における漸近的な振る舞いを精密に解析することで、空間全体のコホモロジーや、関連する母関数の特異点構造が解明される。「無」あるいは「縮退」が、構造全体の理解を可能にする鍵を握る――この主題は、現代代数幾何学のさまざまな場面で繰り返し現れる。関数のゼロと特異点は、こうして、解析学のなかで対をなしながら、関数の局所的・大域的な振る舞いを規定する根本構造を提供している。次章では、視点を解析学から計算機科学に転じ、デジタル世界における「無」の取り扱い、すなわちNullやNaNといった概念を考察する。