無・空・零の数理構造
―― No, None, Zero が織りなす数学的宇宙 ――
第五章 極限と無限小 ―― 限りなくZeroに近づく
数学史の長い歩みのなかで、人類が最も深い哲学的・概念的混乱を味わった主題は、おそらく無限小、すなわち「ゼロではないが、いかなる正の数よりも小さい量」の存在であった。古代ギリシア以来、ゼノンの逆説に始まる連続性と無限分割をめぐる思考は、十七世紀のニュートンとライプニッツによる微分積分学の創出を経て、十九世紀のコーシーとワイエルシュトラスによるイプシロン-デルタ論法の確立へと至る、約二千年にわたる思想的な遍歴を経験した。本章では、この遍歴の主要な転回点を辿りながら、解析学が「ゼロに限りなく近づく」というあの不思議な事態を、いかに厳密な論理構造のなかへ収めていったかを検討する。
第一節 ゼノンの逆説と無限分割
古代ギリシアの哲学者ゼノンは、運動の不可能性を論じる一連の逆説を提出した。なかでも有名な「アキレスと亀」は、足の速いアキレスが、わずかに先行している亀に追いつけないという、直観に反する結論へ導く論証である。アキレスが亀のいた地点に到達するときには、亀はそこから少し先に進んでおり、アキレスが新たな亀の地点に到達するときには、亀はさらにわずかに先へ進んでいる。この過程を繰り返せば、アキレスはいつまで経っても亀に追いつけないことになる。
ゼノンの逆説は、無限の操作と有限の事象の関係をめぐる根本的な問いを提起している。アキレスが亀に追いつくまでの軌跡を、無限個の段階に分割することはできる。しかし、その無限個の段階の総和は、はたして有限の時間で完結しうるのか。古代ギリシアにおいて、この問いに整合的な解答を与える数学的言語は存在しなかった。アリストテレスは、無限を「現実無限」と「可能無限」に区別し、現実に無限が存在するのではなく、有限の事物がいくらでも分割可能であるという可能性として無限を理解することで、ゼノンの逆説の鋭さを和らげようとした。
無限分割の問題が真に厳密な扱いを受けるのは、十九世紀の解析学を待たねばならない。それまでの長い間、無限小は、神学的・形而上学的な含意を帯びながら、数学のなかに半ば認められ半ば斥けられる、ある種の幽霊として漂い続けていた。
第二節 ニュートンとライプニッツ ―― 流動量と無限小
十七世紀後半、アイザック・ニュートンとゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツは、独立に微分積分学を創出した。両者のアプローチは異なるが、いずれも「無限に小さな量」を計算の対象として扱うことを共通の特徴としていた。ニュートンは「流動量」(fluxion)の概念を用い、時間とともに連続的に変化する量の瞬間的な変化率を、無限に短い時間間隔における変化として捉えた。ライプニッツは記号dxを導入し、これを「無限小の差分」として、有限の量と同様の演算規則のもとで操作した。
ライプニッツの無限小dxは、それ自体は0ではないが、有限の数aとの和においてはdxを無視しても誤差を生じないほど小さい、という奇妙な性質を持つ。たとえば関数f(x)=x²の微分を計算するとき、ライプニッツ流の議論は次のようになる。f(x+dx)-f(x)=(x+dx)²-x²=2x・dx+(dx)²。これをdxで割るとf(x)の微分は2x+dxとなり、ここでdxを「無視できるほど小さい」として消去すれば、f’(x)=2xという正しい結果が得られる。
この計算は結果的には正しいが、その論理的構造には深刻な問題がある。dxを「ゼロでない」として割り算を実行し、その直後に「ゼロと等しい」として消去するというのは、明らかに矛盾した操作である。ライプニッツは無限小を「事実上のゼロではないが、ある意味でのゼロ」として扱ったが、これは厳密には定義不可能な概念であった。
十八世紀のアイルランド人哲学者ジョージ・バークリーは、こうした無限小の操作を厳しく批判した。彼の著作『解析者』(一七三四年)のなかで、バークリーは無限小を「死せる量の亡霊」と呼び、宗教的真理を批判する数学者たちが、自らの数学のなかにそれよりはるかに不可解な「無の亡霊」を許容していると皮肉った。バークリーの批判は感情的な色彩を帯びているが、無限小の論理的不整合性についての本質を突いていた。十八世紀から十九世紀初頭の数学者たちは、無限小の不整合性に薄々気づきながらも、それを用いて得られる正しい結果の魅力を捨てることができず、両者のあいだで揺れ動いていた。
第三節 コーシーの極限論
無限小の幽霊を解析学の世界から追放する第一歩を踏み出したのは、十九世紀フランスのオーギュスタン=ルイ・コーシーであった。コーシーは無限小を「変数として、ゼロに限りなく近づくもの」として再解釈した。すなわち、無限小は固定された一個の小さな数ではなく、限りなくゼロに近づいてゆく変動する量である。これによって、無限小という曖昧な存在は、極限という動的な過程に置き換えられた。
コーシーによれば、ある変数xnが値Lに収束するとは、「nを十分に大きくとれば、xnとLとの差を、いくらでも小さくすることができる」ということを意味する。微分係数も同様に、関数の差分の比が、変数の差分がゼロに近づくときの極限値として定義される。これによって、ライプニッツの無限小dxは、より正確には「xの増分Δxがゼロに収束する過程」として再解釈され、論理的な不整合性は解消された。
ただしコーシーの定式化には、まだいくつかの曖昧さが残っていた。「いくらでも小さくすることができる」という表現は、依然として直観に頼った言い回しであり、論理的に完全に厳密とは言いがたかった。コーシーの貢献は、無限小を極限の概念に還元することの基本方針を確立した点にあるが、その方針を完全に厳密な論理形式へと整形する作業は、後世の数学者たちに委ねられた。
第四節 ワイエルシュトラスとイプシロン-デルタ論法
極限の概念を完全に厳密化したのは、十九世紀後半のドイツの数学者カール・ワイエルシュトラスであった。彼の確立したイプシロン-デルタ論法は、極限を完全に静的・論理的な命題として再定式化することに成功した。
ワイエルシュトラスの定義によれば、関数f(x)がx=aにおいて極限値Lを持つとは、次の論理命題が成立することを意味する。「任意の正の実数εに対して、適当な正の実数δを選べば、0<|x-a|<δなるすべてのxについて、|f(x)-L|<εが成り立つ」。ここには、もはや「限りなく近づく」という動的な表現は登場しない。あるのは、二つの正の実数εとδに関する論理的な依存関係――εが先に与えられ、それに応じてδが選ばれる――だけである。
この定義の優雅さは、極限を「ある変数が時間とともにゼロに近づく」という時間的・運動的な過程として描くのではなく、「いかに小さなε(誤差の許容範囲)を要求されても、それに対応する十分小さなδ(入力の制限範囲)が存在する」という、一つの論理的な普遍命題として捉え直したことにある。これによって、無限小という存在論的に怪しげな対象は、解析学から完全に放逐された。極限はもはや、ゼロに近づく何かの状態ではなく、ある不等式が任意に小さい誤差に対して成立しうるという、論理的な事実である。
十九世紀後半の解析学は、ワイエルシュトラスの厳密化を起点として、リーマン、デデキント、カントールらによる実数体系の精密な構築、関数論の精緻化、集合論の創設へと連鎖的に発展していった。ゼロに「限りなく近づく」という古来の問題は、こうして論理学的な不等式の言語に翻訳され、解析学の堅固な基礎の一部となった。
第五節 超準解析 ―― よみがえる無限小
ところが、十九世紀的な厳密化によって追放されたはずの無限小は、二十世紀後半に至って、奇妙な形で復活を遂げる。一九六〇年代、数理論理学者エイブラハム・ロビンソンは、モデル理論の手法を用いて、実数体を拡張した超実数体を構築し、そのなかで無限小と無限大を厳密に取り扱える「超準解析」(nonstandard analysis)を開発した。
超実数体のなかでは、ライプニッツが思い描いたような無限小、すなわち「ゼロではないが、いかなる正の実数よりも小さい正の数」が、実際に対象として存在する。すなわちε>0であって、しかし任意の正の有理数1/nに対してε<1/nが成り立つような数εが、超実数体のなかには確かに存在する。これによって、ライプニッツ流の無限小計算が、論理的に厳密な意味で正当化される。微分や積分の計算は、極限という動的な過程を経由することなく、無限小を直接的に操作する代数的な計算として実行できるようになる。
超準解析は、解析学に対する代替的な厳密化として、現在では一定の地位を占めている。教育的な観点からは、ライプニッツ流の直観的な無限小計算をそのまま厳密化できるという利点があり、また実用的な計算においては、しばしばイプシロン-デルタ論法よりも簡潔な議論を可能にする。ロビンソンの仕事は、ゼロと数のあいだに住まう無限小という古来の幽霊が、二十世紀の数学のなかで正式な市民権を取り戻したことの証左である。
極限と無限小の物語は、こうして、ゼロと「ゼロでないがゼロに近い」もののあいだに、いかなる論理的構造を読み込むかという問いをめぐって、数学史を貫いて伸びている。古典的な極限論は無限小を排除することで厳密性を獲得し、超準解析は無限小を新たな形で復活させることで別種の厳密性を確立した。両者は、ゼロという原点をめぐる、二つの異なる視角からの応答であって、いずれも数学が「無」を扱う技法の精妙さを示すものである。
第六節 無限級数の極限とゼロへの収束
極限の概念は、無限級数の収束という現象を通じても、ゼロと密接に結びつく。ある無限級数1/2+1/4+1/8+1/16+……を考えよう。この級数の各項は次第に小さくなり、ゼロに収束していく。同時に、有限項までの部分和は1という値に近づいてゆく。すなわち、各項は無限小に向かいながら、それらの累積は有限の値に収束する。これは古代ギリシアのゼノンが提起した運動の逆説に対する、解析学からの一つの回答である。アキレスが亀に追いつくまでの軌跡を無限分割しても、各段階の所要時間は次第にゼロに近づくため、それらの総和は有限の値に収まり、追いつきは現実に起こりうる。
一方、ある無限級数においては、各項がゼロに近づくにもかかわらず、その総和は無限大に発散する。最も有名な例が調和級数1+1/2+1/3+1/4+……であって、この級数の各項は1/nという形でゼロに収束するが、部分和は対数的に発散していく。これは「項がゼロに近づく」という事実が、必ずしも「総和が有限の値に収束する」ことを意味しない、という極めて重要な事実を示している。ゼロへの近づき方の「速さ」が、級数全体の振る舞いを決定するのである。
無限級数の収束判定は、解析学のなかで精緻な理論として発展してきた。比較判定法、比判定法、根判定法、積分判定法、交代級数判定法――これらの判定法はいずれも、各項がゼロに近づく速度を様々な角度から測定する技法であって、ゼロへの漸近のなかにいかに豊かな構造が潜んでいるかを物語っている。次章では、解析学の領域をさらに進み、関数の零点と特異点という、より特殊なゼロのあり方を考察する。