無・空・零の数理構造
―― No, None, Zero が織りなす数学的宇宙 ――
第三章 Noneの集合論 ―― 空集合 ∅ の逆説
数の体系のなかにゼロという「無」が居場所を持つようになったのと並行して、十九世紀後半以降の数学は、もう一つの全く異なる種類の「無」を、その基礎構造のなかに迎え入れた。それが空集合である。空集合とは、要素を一つも持たない集合のことであり、ギオルク・カントールに端を発する集合論の建造において、最初の一塊の煉瓦として据えられた、極めて基底的な対象である。本章では、この「中身のない容器」が、いかにして現代数学の基盤を支える本質的な構成要素となっているのかを、その独特な性質と帰結を含めて詳細に検討する。
第一節 空集合の定義と一意性
集合論において、ある集合Sが空集合であるとは、Sが要素を一つも持たないこと、すなわち「任意のxについて、xはSの要素ではない」が成り立つことを意味する。記号的にはS=∅、あるいはS={}と書く。空集合の表記としてのギリシア文字∅は、デンマーク語のゼロを示す字(Ø)に由来し、数学者ニコラ・ブルバキの著作群を通じて、二十世紀半ばに国際的な標準として定着した。
空集合に関する最も重要な事実の一つは、その一意性である。つまり、空集合は本質的にただ一つしか存在しない。これは、外延性公理(二つの集合が等しいことは、その要素がすべて一致することと同値であるという公理)から直ちに従う帰結である。仮に二つの空集合∅₁と∅₂があったとすると、両者ともに要素を一つも持たないから、外延性公理によって両者は等しい。すなわち∅₁=∅₂となる。「中身がない」という状態は、本質的に一通りしか存在しないのである。
これは、私たちの直観に反する事実ではない。空っぽの財布が二つあったとしても、それぞれの財布の物理的な実体は別物であるかもしれないが、「お金が入っていない」という抽象的な状態としては両者は同じである。集合論はこの直観を厳密な公理として汲み上げ、空集合という抽象的対象に唯一性という地位を保証している。一方、ゼロという数についても、整数環Zの加法単位元としてのゼロは一意であり、これも同じく代数的に保証された一意性である。空集合とゼロは、それぞれ集合論と代数学のなかで、それぞれ独自の意味で一意な「無」の対象として機能している。
第二節 {∅}と∅の決定的差異
空集合をめぐって、初学者がほぼ必ず躓く問題が一つある。それは、空集合∅と、空集合のみを要素として持つ集合{∅}とを混同してしまう、というものである。両者はしばしば同一視されるが、集合論的にはまったく別個の対象である。前者∅は要素を一つも持たない集合であり、その濃度(要素数)は0である。後者{∅}は、要素を一つだけ持つ集合であり、その濃度は1である。要素の中身が「空集合」であるという事実は、その集合自体が空であるか否かとは無関係なのである。
このことを直観的に把握するためには、しばしば容器のメタファーが用いられる。∅は中身のない空箱である。これに対し{∅}は、空箱を一つだけ収納している大きな箱である。後者の大きな箱の中には、確かに「箱」が一つ入っているのだから、それは空ではない。中身が空の小箱であろうとなかろうと、収納されているもの自体の存在によって、外側の箱は空ではなくなる。ここでは、容器という物理的なメタファーが、集合の階層構造を直観的に伝えるための補助線として機能している。
この区別の重要性は、集合論の公理化のごく初期段階において、すでに明らかにされていた。ジュゼッペ・ペアノやエルンスト・ツェルメロといった先駆者たちは、集合論の公理を整備する過程で、要素であることと部分集合であることとの混同を慎重に避けるように努めた。{∅}と∅を混同することは、要素であることと部分集合であることとを混同することと同じ種類の誤りであり、この区別が崩れると、ラッセルのパラドックスに代表される逆説的な状況を防ぐことができなくなる。空集合に対する厳密な扱いは、現代集合論の整合性を保証するための、いわば最後の防波堤の一つなのである。
第三節 空集合のあらゆる集合に対する部分集合性
空集合に関するもう一つの著しい性質は、空集合があらゆる集合の部分集合であるという事実である。すなわち、任意の集合Aに対して、∅⊆Aが成立する。この主張は、最初に聞くといささか奇妙に感じられる。中身のない空集合が、たとえば自然数全体の集合の部分集合である、というのは、何か恣意的な約束事のように見えるかもしれない。しかし、実はこれは部分集合の定義から論理的に必然的に従う帰結なのである。
部分集合の定義を思い起こそう。「BがAの部分集合である」とは、「Bの任意の要素は、Aの要素である」という命題である。すなわち、B⊆A⇔∀x(x∈B⇒x∈A)。さて、Bが空集合∅であるとき、x∈∅となるxは存在しない。したがって、x∈∅⇒x∈Aという含意は、前件が常に偽であるため、Aが何であろうと自動的に真となる。前件が偽ならば、含意全体が真となる――これは古典論理の基本的な真理表に従う帰結である。「もし火星人がいれば私は王様である」が論理的に真であるのと同じ意味で、「空集合の任意の要素はAの要素である」は論理的に真なのである。
このように、前件が偽であることによって含意が空虚に成立することを、論理学では「空虚な真」(vacuous truth)と呼ぶ。空集合をめぐっては、この空虚な真がしばしば顔を出す。たとえば、「空集合のすべての要素は偶数である」という命題と、「空集合のすべての要素は奇数である」という命題は、ともに空虚に真である。一見すると矛盾するように見える二つの命題が同時に真となるのは、両者が等しく前件偽の含意であって、いずれの場合も具体的な反例を見つけ出すことができないからである。空集合をめぐる論理は、私たちの日常的な推論の癖をしばしば裏切るが、それは論理が我々の直観を訂正しているのであって、その逆ではない。
第四節 冪集合と空集合
ある集合Aの部分集合をすべて集めてできる集合を、Aの冪集合といい、P(A)あるいは2^Aと表記する。冪集合の概念のなかで、空集合は二つの相互に対偶的な役割を演じる。第一に、空集合自身は任意の集合Aの部分集合であるから、∅はP(A)の要素である。第二に、A自身もP(A)の要素である。すなわち、冪集合P(A)は少なくとも∅とAという二つの要素を含んでいる(A自身が空集合の場合を除いて)。
特に注目すべきは、空集合の冪集合P(∅)である。∅の部分集合は∅自身だけであるから、P(∅)={∅}である。すなわち、空集合の冪集合は、空集合のみを要素として持つ一元集合である。これは、空(=何もない)から、要素一つを持つ集合へと跳躍する瞬間であって、フォン・ノイマンによる自然数の構成(後の終章で詳述する)の出発点となる重要な事実でもある。0と1の関係は、∅と{∅}の関係として、集合論的に厳密に定式化されている。
冪集合の濃度について、有限集合Aが要素をn個持つ場合、P(A)の要素数は2のn乗である。Aが空集合の場合、n=0であるから、要素数は2の0乗、すなわち1である。ここでも空集合は0との関係を緊密に保ちながら、しかし0そのものではない、特異な対象として振る舞っている。なお、この事実から、零でない自然数を「空集合の冪集合の冪集合の……」と入れ子にしていくことで構築できるという驚くべき構成が浮かび上がるが、それは終章において再度触れる。
第五節 空集合上の関数と直積
空集合は、関数論や直積論のなかでも、しばしば奇妙な振る舞いをみせる。ある集合Aから集合Bへの関数とは、Aの各要素に対して、Bの要素を一つずつ対応させる規則のことである。Aが空集合である場合、関数は何の対応も指定する必要がない。すなわち、空集合から任意の集合Bへの関数は、ただ一つだけ存在する。これは「空関数」と呼ばれる。Aが空である場合、対応の指定が空虚に完了するため、関数は唯一通りに定まるのである。
逆に、Bが空集合で、Aがそうでない場合はどうか。AからBへの関数が存在するためには、Aの各要素に対してBの要素が割り当てられなければならない。しかしBには要素が一つもないから、Aがそうでない限り、割り当ては不可能である。すなわち、空でない集合から空集合への関数は、一つも存在しない。空集合は、写像の終域としては「死んだ」対象であるが、始域としては「生きている」のである。
この非対称性は、圏論において空集合が初期対象として位置づけられる事実と密接に関連している(これは第九章で詳述する)。集合の圏において、空集合からは任意の対象に対して唯一の射(関数)が存在し、これは初期対象の定義そのものである。空集合は、何もないという特性ゆえに、すべての対象を「眼下に見下ろす」普遍的な発射点となる。一方、終域としての空集合は、生命を保持できない場所――情報がそこに到達することを許さない、絶対的な不毛地帯――として機能する。
直積についても、空集合は特異な振る舞いをみせる。集合AとBの直積A×Bは、Aの要素とBの要素の組(順序対)の集合である。AまたはBの一方が空集合であるとき、A×Bは空集合となる。これは直観的に納得しやすい――組をつくるためには両方の集合に要素が必要であって、片方が空ならば組はつくれない。しかしここで、空集合と空集合の直積∅×∅もまた空集合であるという事実は、空集合を要素ゼロの集合として扱うことの整合性を改めて確認させる。
第六節 空集合は「無」か「対象」か
空集合は「無い」のか、それとも「ある」のか。この問いは、集合論の哲学的基礎をめぐる、極めて根本的な論点を提起する。集合論の枠組みのなかでは、空集合は紛れもなく一つの対象である。それは集合と呼ばれる種類の存在者の一員であり、他の集合と並んで集合論の宇宙のなかに居場所を持っている。しかし他方、その内容は文字通り何もない。空集合を内側から見れば、そこには何も存在しない。だが外側から見れば、それは確かに一個の集合として、独自の同一性と性質を備えている。
この外側と内側の食い違いは、ゼロという数に対しても類似した形で現れる。ゼロは、数えるという文脈においては「数えるべきものが何もない」という事態を指すが、計算という文脈においては、加法単位元として確かな存在感を持つ一つの数である。空集合とゼロは、この意味で、いずれも「無」の二重性――内的な空虚と外的な存在――を体現している。
二十世紀の哲学者たちのなかには、空集合を巡るこの存在論的な逆説を、より広範な存在論の問題として考察した者もいる。アラン・バディウは、その大著『存在と出来事』のなかで、空集合を「存在の零度」として位置づけ、集合論の公理から構築されるあらゆる数学的存在者が、究極的には空集合を起点として組み立てられていることを論じた。バディウの視点に従えば、空集合とは、存在することと存在しないこととが交叉する閾そのものであり、すべての数学的存在者の発生点となる原初的な対象である。
空集合をめぐる思考は、こうして集合論の技術的な基礎から、存在論の最深部へと延伸してゆく。
第七節 空集合の歴史的受容
空集合の概念が現代集合論に根付くまでには、ゼロの数学への定着と同様に、長い知的な躊躇があった。十九世紀末にカントールが集合論を創始した当時、空集合の身分は必ずしも自明ではなかった。カントール自身は空集合を扱うことに躊躇いを見せたとも伝えられている。「集合」という言葉が、本来は「集まり」「群れ」を意味する以上、要素が一つもない集まりというものは、語義矛盾に近いものとして感じられた。
空集合を集合論の正式な対象として確立したのは、二十世紀初頭のツェルメロによる集合論の公理化であった。彼の一九〇八年の論文において、空集合公理が明示的に述べられ、空集合が数学的対象として権利を獲得した。これによって、空集合は単なる「集まりの不在」ではなく、集合論の宇宙のなかで明確な座標を持つ一個の要素として定着した。これは、ゼロが「数えられない無」から「数」へと格上げされた、一千年前のインド数学における出来事と、構造的によく似た知的な事件であった。空集合は集合の世界における「ゼロ」――最初は受け入れがたいが、いったん認められれば体系全体の基礎となる対象――としての地位を、二十世紀になってようやく確立したのである。
注目すべきは、空集合の認知と、ゼロの認知のあいだに、約一千二百年もの時間差があるという事実である。インドのブラーマグプタが七世紀にゼロを数として明示的に扱ったとき、それは記号としての無を計算可能な対象へと格上げする画期的な営為であった。同様に、ツェルメロが二十世紀初頭に空集合を公理によって確立したとき、それは集合論的な無を集合の宇宙の正規市民へと格上げする画期的な営為であった。両者には千二百年の時を超えた構造的な反復があり、無を厳密化する営為が、人類の知的歴史のなかで繰り返し現れる主題であることを示している。
次章では、視点をふたたび転じて、命題の真偽判定としての「無」、すなわち論理学におけるno、否定と不存在の概念を扱うこととする。