無・空・零の数理構造

―― No, None, Zero が織りなす数学的宇宙 ――

第二章 Zeroの代数的特異点 ―― 破壊と創造の原点

数の体系のなかでゼロが占めている位置は、一見すると他の整数と同じく数直線上の単なる一点にすぎない。しかし、代数学の視点からゼロを観察するとき、それは他のいかなる数とも本質的に異なる、極めて特異な性質を帯びていることが明らかになる。ゼロは加法において中立であり、乗法において吸収的であり、除法においては禁忌である。これら三つの異なる相が一つの数のうちに同居しているという事実こそ、ゼロを代数構造の特異点たらしめている。本章では、現代代数学の枠組みのなかで、ゼロが演じている多重的な役割を順を追って解きほぐしていく。

第一節 加法単位元としてのゼロ

代数学において最も基本的な構造の一つに群がある。群とは、ある集合と、その上で定義された二項演算からなる構造であって、結合律が成り立ち、単位元が存在し、各要素が逆元を持つものを言う。整数全体のなす集合と通常の加法は、典型的な群(より正確には可換群またはアーベル群)の例である。この群構造のなかで、ゼロは加法の単位元として位置づけられる。すなわち、任意の整数aに対して、a+0=0+a=aが成り立つ。ゼロを加えるという演算は、その対象に何の変化ももたらさない。この「何もしない」という働きこそ、加法群の構造を支える要となっている。

加法単位元としてのゼロが果たす役割の重要性は、それを欠いた構造を考えてみることによって、より明瞭になる。たとえば、自然数全体(1、2、3……と続く正の整数のみ)の集合は、加法に関して結合律を満たすが、ゼロを欠いているため単位元を持たず、したがって群にはならない。これは半群と呼ばれる、より弱い構造である。ゼロを自然数のなかに加え、0、1、2、3……という非負整数の集合を構成すれば、これは単位元を持つ半群、すなわちモノイドとなる。さらに負の整数までを認めてはじめて、各要素に逆元が存在する完全な群構造が得られる。すなわち、ゼロは群構造の階梯のなかで、半群とモノイドを分かつ閾として機能している。

線形代数においては、加法単位元としてのゼロは、ゼロベクトル0という形で一般化される。ベクトル空間Vのゼロベクトルは、Vの任意のベクトルvに対してv+0=vを満たす唯一のベクトルである。さらに環論においては、加法の単位元と乗法の単位元が併存する構造が現れる。整数環Zでは加法単位元0と乗法単位元1がともに存在し、しかも両者は常に異なっている。0と1が一致する環というものを考えることもできるが、それは実は唯一通り、零環(自明環)と呼ばれる、要素が0だけからなる退化した環である。0=1である環は本質的に一つしか存在しないという事実は、ゼロと一というたった二つの要素のあいだの関係が、環論の構造そのものを枠づけていることを示唆している。

第二節 乗法の吸収元 ―― 情報の消滅

加法において控えめな中立元として振る舞っていたゼロは、乗法の世界に入った途端、その振る舞いを一変させる。任意の数aに対して、a×0=0×a=0が成り立つ。これは乗法の吸収律と呼ばれる性質である。ゼロを掛けるという行為は、その対象の値が何であったかにかかわらず、結果を一律にゼロへと回収してしまう。あらゆる情報は、ゼロとの乗算によって消失する。これは、加法における「何もしない」という性質とは対照的に、乗法における「すべてを呑み込む」という、極めて破壊的な振る舞いである。

乗法の吸収律は、簡潔な代数操作によって導かれる。すなわち、a×0=a×(0+0)=a×0+a×0であるから、両辺からa×0を引けば0=a×0が得られる。この一行の議論のなかには、加法単位元としてのゼロの定義(0+0=0)と、乗法の加法に対する分配律という、環の二つの基本的な公理が暗黙のうちに用いられている。すなわち、ゼロが乗法において吸収的であるという性質は、ゼロが加法において中立的であるという性質と分配律から、論理的に必然的に導かれる帰結なのである。

この吸収律がもたらす重大な帰結の一つは、可逆性の喪失である。ゼロを除く整数や有理数の世界では、乗法は概ね可逆的な操作である。すなわち、a×bという積から、aさえ分かっていればbを復元することができる(aで割ればよい)。しかしゼロを掛ける操作は、復元不可能な情報の喪失を伴う。a×0=0という結果を見ても、aが何であったかを知ることはできない。aは1かもしれないし、百万かもしれないし、円周率かもしれない。乗法における吸収律は、ある意味で乗法をブラックホールへと変える性質である。あらゆる数値情報は、ゼロとの乗算という事象の地平線を越えた瞬間、外部から観測可能な痕跡を残さずに消滅する。

第三節 ゼロ除算という禁忌

加法における中立、乗法における吸収というゼロの二つの相は、組み合わさって、もう一つの帰結を必然的に生み出す。すなわち、ゼロによる除法は定義できないという、初等数学において最初に教えられる禁忌である。なぜ「定義できない」のか。それは、ゼロ除算を整合的に定義しようとする試みが、必ず代数体系の崩壊へとつながるからである。

仮に1÷0=cという有限の値cが存在すると仮定してみよう。すると、除法の定義により、c×0=1でなければならない。しかし乗法の吸収律により、c×0は何であろうと0であって、決して1にはならない。したがって1÷0は、いかなる数cによっても整合的に表すことができない。同様の議論は、ゼロでない任意の数aに対するa÷0についても成り立つ。すなわち、ゼロでない数をゼロで割ることは、代数体系のなかでは原理的に不可能である。

では、0÷0についてはどうか。ここはさらに事態が紛糾する。0÷0=cという値が存在すると仮定すれば、c×0=0が成り立つ必要があるが、これは任意のcについて成立してしまう。すなわち、0÷0は値が一意に定まらないという意味において不定(indeterminate)である。ゼロでない数のゼロ除算が「不能」であるのに対し、0÷0は「不定」であり、両者の間にもまた厳密な区別が存在する。この「不能」と「不定」の区別は、後の極限論や微分積分学において、決定的に重要な意味を帯びることになる。

もっとも、ゼロ除算を完全に追放するのではなく、特定の構造のなかで意味を持たせようとする試みも、現代数学のなかには存在する。複素解析におけるリーマン球面では、複素平面に「無限遠点」を一点付け加えることで、a÷0=∞という記号的な等式を定義する。あるいは、車輪論(wheel theory)と呼ばれる代数構造では、新たな要素⊥(ボトム)を導入することで、ゼロ除算を全域的に定義することが試みられている。ただしいずれの場合も、伝統的な体(実数体や複素数体)の代数構造を犠牲にするか、あるいは大きく拡張することの代償として、ゼロ除算の意味を回復している。

第四節 ゼロ因子と整域

環論において、ゼロが持つもう一つの興味深い側面は、ゼロ因子(zero divisor)の概念である。環Rの二つのゼロでない元aとbがあって、それらの積abが0となるとき、aとbをゼロ因子と呼ぶ。整数環Zにおいては、aとbがどちらも0でなければ、その積abも決して0にはならないから、整数環にはゼロでないゼロ因子は存在しない。このような環を整域(integral domain)と呼ぶ。

しかし、ゼロでないゼロ因子を持つ環というものが、現代数学のなかには豊富に存在する。たとえば、剰余類環Z/6Zにおいて、2と3はどちらもゼロではない元であるが、2×3=6は6を法として0と合同であるから、ゼロ因子の対をなす。あるいは行列環において、ゼロでない二つの行列の積がゼロ行列となることは、しばしば起こる現象である。これらの環では、a×b=0という方程式から「aかbのどちらかが0である」という結論を導くことができない。これは、整域のなかでは当然のように成り立っていた論理的推論が、より一般の環では成り立たないことを意味している。

ゼロ因子の存在は、方程式論や因数分解の理論に根本的な影響を及ぼす。整域においては、x²=0という方程式の解はx=0のみであるが、ゼロ因子を持つ環ではこの方程式の解が複数存在しうる。すなわち、ゼロ因子を持つ環のなかでは、ゼロは「割り切れない一個の点」ではなく、「複数の方角から到達可能な複合的な対象」へと変容する。ゼロという同一の表記の下で、環ごとにその性格が大きく異なるという事実は、ゼロが代数構造の特異点として、構造そのものの内的多様性を反映する鏡となっていることを示している。

以上、加法における中立、乗法における吸収、除法における禁忌、そしてゼロ因子という、ゼロが代数構造のなかで演じる四つの異なる役割を概観した。一つの数がこれほど多重で、しかも互いに矛盾とも思える性格を備えているという事実は、ゼロが単なる「数えられない無」ではなく、数の体系全体を構造化する原点であり、同時にその構造の限界点でもあることを示唆している。

代数学の発展史を振り返れば、ゼロのこうした多面的な振る舞いが整理されて理解されるようになるには、十九世紀以降の抽象代数学の成立を待たねばならなかった。ガロア、デデキント、エミー・ネーターらによって徐々に整備された群論、環論、体論の枠組みのなかで、ゼロは「単に0という一個の数」ではなく、それぞれの代数構造のなかで定義される構造的な役割として、抽象的に再定式化された。整数環におけるゼロ、剰余類環におけるゼロ、行列環におけるゼロ、関数環におけるゼロ――これらはいずれも「ゼロ」と呼ばれる対象でありながら、その振る舞いは構造ごとに異なる。抽象代数学の成立によって、私たちは、ゼロという同一の名のもとに、構造ごとに異なる多様な姿を与えうることを理解するようになった。次章では、こうしたゼロから視線を転じて、空集合という、もう一つの「無」のあり方を集合論の視点から検討する。