無・空・零の数理構造

―― No, None, Zero が織りなす数学的宇宙 ――

第一章 Zeroの発見と発明 ――「位取り」から「数」へ

人類は数を数えるという営みを、おそらく文字を獲得するよりもはるかに以前から行ってきた。狩猟の獲物の数、家畜の頭数、収穫した穀物の量、こうした計量の必要性は、新石器時代の農耕社会の成立とともに急速に高まり、最終的には文字以前の刻み目記号や粘土製のトークンとして物質化された。しかし、これらの最初期の計数装置のなかに、ゼロという概念は登場しない。一頭、二頭、三頭と数えていくとき、零頭という事態は単に数えるべきものが存在しない状態であって、わざわざ記号を設けて表現する必要のあるものではなかったからである。ゼロは、数の体系のなかで最も遅れて到着した数である。それは、数を「数える」という具体的な操作の延長線上には現れず、むしろ数を「書き表す」という記号体系のなかから、書記法の必要性として要請された概念であった。

第一節 バビロニアとマヤ ―― 空白としてのゼロ

ゼロの最も古い痕跡は、紀元前二千年紀のバビロニア数学に見出される。バビロニアの数表は六十進法による位取り記数法を採用しており、たとえば二桁の数は六十の位と一の位という二つの位置によって表された。ところが、ある位に何も数が立たない場合、たとえば「六十一」と「三千六百一」を区別する手段がなかった。当初、書記たちは単に隙間を空けることで空位を表現したが、これは粘土板上の解釈を曖昧にし、しばしば計算の誤りを招いた。やがて紀元前数百年ごろになると、バビロニアの数表のなかに、空位を示すための特別な楔形文字が登場する。これが知られているかぎりで人類最古のゼロの記号である。

ただし、このバビロニアの「ゼロ」は、現代的な意味でのゼロとはなお遠い存在であった。それはあくまで「ここにはこの位の数が立たない」ということを示すための、言わば句読点のような記号であって、それ自身が「数」として加減乗除の対象になることはなかった。バビロニアのゼロは記号としては存在したが、数としてはまだ存在していなかったのである。同じことは、紀元後の中米マヤ文明についても言える。マヤの暦法は二十進法に基づいた精密な体系を有し、長期暦のなかで空位を貝殻の形に似た記号で表したが、こちらもまた書記法上の必要から生まれた空白記号にとどまっていた。

第二節 インド数学の革命 ―― 数としてのゼロ

ゼロが書記記号から数へと飛躍するのは、インド亜大陸においてである。五世紀から七世紀にかけて、インドの数学者たちは、空位を示すために用いられていた小さな点(ビンドゥと呼ばれた)を、次第に独立した一個の数として扱い始めた。この変化の決定的な瞬間は、七世紀のブラーマグプタによる『ブラーマスフタ・シッダーンタ』(六二八年)に見出される。この書物のなかでブラーマグプタは、ゼロを含む算術演算の規則を、史上初めて体系的に書き下した。

ブラーマグプタは、正の数を「財産」、負の数を「負債」、ゼロを「無」と呼びながら、これら三者の間の加減乗除の規則を定式化した。すなわち、財産に無を加えれば財産のままであり、負債に無を加えれば負債のままである。財産から財産を引けば無となり、負債から負債を引けば無となる。これらは現代の代数記号で書けばa+0=a、a-a=0という、当然視される基本則であるが、それを「無」を一つの計算可能な数として明示的に位置づけたのは、人類の知的歴史における巨大な転換点であった。ゼロを数の仲間に加えることによって、減法は完結した。すなわち、引き算の結果がつねに数の体系のなかにとどまるための前提条件が初めて整ったのである。

ただしブラーマグプタの時代には、ゼロをめぐる難問の一つ、すなわちゼロによる除法の問題は、まだ十分に解決されてはいなかった。ブラーマグプタはa÷0を定義しようと試みたが、その結果は現代の視点から見ると整合的とは言いがたく、後世の数学者たちはこの問題と長らく格闘し続けることになる。十二世紀のバースカラはa÷0を「無限大」と呼び、ゼロによる除法は無限を生み出すという神秘的な性格を帯びた解釈を提示したが、これも厳密な意味では整合的ではない。ゼロ除法の問題は、結局、十九世紀以降の現代数学において、ゼロ除算は定義できない(あるいは特定の構造においてのみ意味を持つ)という方針のもとで暫定的な決着を見ることになる。

第三節 欧州の抵抗 ―― ゼロ忌避の神学

ゼロという数の概念がインドから西方へと伝播するには、なお数世紀を要した。九世紀のバグダードにおいて、アル=フワーリズミーがインド数学を吸収し、自著『計算の書』のなかでヒンドゥー=アラビア数字(インド数字)を体系的に紹介した。これによってインド起源のゼロは、まずイスラム世界に広まり、その後イベリア半島を経由して、徐々にヨーロッパ世界へと浸透していった。十三世紀初頭、ピサの商人レオナルド・フィボナッチは、北アフリカでアラビア数学を学び、帰国後の一二〇二年に著した『計算の書』(リベル・アバキ)のなかで、インド数字とゼロを用いた計算法をヨーロッパに紹介した。

しかし、ヨーロッパにおけるゼロの受容は、決して順調ではなかった。一つには、ローマ数字に慣れ親しんだ既存の計算習慣との競合があった。ローマ数字には位取りという概念がなく、したがってゼロを必要とせず、I、V、X、L、C、D、Mといった文字の組み合わせによって数を表記する。位取り記数法の採用なくしてはゼロは無用の長物であり、ヨーロッパの商業計算は、長らく算盤や計算板の上で行なわれた。これらの計算具のうえでは、空欄が事実上のゼロを担っていたから、書記記号としてのゼロを明示的に書く必要はなかったのである。

もう一つには、ゼロや負の数に対する哲学的・神学的な抵抗があった。中世キリスト教神学の世界観では、神の創造によって万物が「在る」ものとして与えられており、「無」とは創造以前の、あるいは神に対立する深淵としての性格を帯びていた。アリストテレスの自然学が真空(無)の存在を否定したのと同様に、ゼロという「無」を計算可能な実体として認めることは、中世スコラ哲学の感性に対して根本的な違和感を引き起こした。十五世紀になっても、フィレンツェやヴェネツィアの一部の都市はインド数字の使用を公文書において禁じており、その理由として挙げられたのは、ゼロの存在が偽造(たとえば10を100に書き換える)を容易にするという実務的な理由のほか、「無を数として記すこと」への漠然とした宗教的な不快感であった。

第四節 近世における全面的受容

ゼロのヨーロッパへの全面的な受容は、十六世紀から十七世紀にかけての印刷技術の普及、商業の拡大、近代科学の勃興と歩を一にして進んだ。シモン・ステヴィンによる十進小数の導入(一五八五年)、ジョン・ネイピアによる対数の発明(一六一四年)、ルネ・デカルトによる座標幾何学の創出(一六三七年)――これらの近世数学の革新は、いずれもゼロを基準点として位置づけ直すことによって初めて可能になった。デカルト座標における原点(origin)は、x軸とy軸の交点であり、すべての座標の起点であるが、それは数学的にはゼロと同一視される一つの点である。ゼロは「数えられない無」から「すべての計測の起点」へと、その地位を根本的に転換させた。

十七世紀以降、ゼロは数学の言語のなかに深く埋め込まれ、もはやその不在を想像することすら困難になった。微分積分学における極限の概念は、変数がゼロに「限りなく近づく」過程を厳密に記述しようとする試みの所産であり、ニュートンとライプニッツによる解析学の成立は、ゼロの取り扱いをめぐる微妙で深遠な技法の体系化に他ならなかった。十九世紀のコーシー、ワイエルシュトラスによるイプシロン-デルタ論法の確立は、ゼロをめぐる長い哲学的混乱に終止符を打ち、解析学を厳密な学問として確立する礎となった。

ゼロという一つの数は、こうして、書記記号としての小さな丸印から出発し、商業計算の道具を経て、現代数学の中核を支える基底概念へと成長してきた。それは単なる「無」の表記ではなく、加法における中立元、座標系の原点、微分積分学の極限、線形代数のゼロベクトル、群論の単位元、関数の零点といった、無数の役割を兼ね備える多面的な存在となった。一つの記号がこれほど多くの意味を担い、これほど広範な数学的構造を支えているという事実は、それ自体が、抽象化と一般化を不断に推し進めてきた数学という営為の本質を雄弁に物語っている。

ゼロの歴史を振り返ると、人類はおよそ二千年をかけて、ゼロを書記記号から数へと、そして数から構造の原点へと、徐々にその意味を深化させてきたことがわかる。これは単なる数学史的な裏話ではなく、人類の抽象化能力そのものの発展史である。ある記号が空白を埋めるための便宜的な記号にすぎなかった段階から、それ自身を数として演算の対象とする段階へ、さらにそれが他のすべての数を関係づける原点として機能する段階へ――この三つの段階は、人類が「無」というものを、いかに知的に飼い慣らしてきたかの歴史的な証言である。次章では、こうしたゼロが、いかにして代数構造のなかで特異な役割を演じる「数」として機能しているのかを、より厳密な代数学の視点から検討する。