無・空・零の数理構造

―― No, None, Zero が織りなす数学的宇宙 ――

序章 三つの「ナイ」の識別 ―― 数学が「無い」を語るとき

ある朝、机の前で財布を探している人物がいる。やがて彼はつぶやく――「財布が無い」。次に、ようやく見つけた財布を開いて確かめると、中身が空であることに気づく。彼は再びつぶやく――「お金が無い」。さらに友人と電話で話し、その日に予定されていた送金が成立しなかったと知らされる。彼は溜息まじりに告げる――「振込が無い」。三度繰り返されたこの「無い」は、文法的にはまったく同じ語であるにもかかわらず、それぞれ全く異なる事態を指している。最初の「無い」は対象そのものが見当たらないことを、二番目の「無い」は対象は確かに存在するが内容物が空であることを、そして三番目の「無い」は、ある事象が起きることを期待していたのにそれが起きなかったこと、すなわち命題の真理値が偽であったことを表している。

数学は、こうした日常言語の曖昧さを極端なまでに切り詰め、それぞれの「無い」を別個の概念として厳密に区別してきた営みである。本書はこの営みを「無の数理学」として再構成する試みであり、より具体的には英語のno(否定)、none(空・無)、zero(零・原点)という三つの語に対応する数学的概念を、歴史的・代数的・論理的・哲学的な視点から横断的に考察するものである。

第一の無 ―― Zero(零)

第一の「無」はゼロである。これは数直線のちょうど中央に位置する一つの点であり、加法における単位元として、また乗法における吸収元として、極めて積極的な役割を果たす。ゼロは「ある」もの、すなわち実在する数であり、他の自然数や整数と並んで数の体系のなかに居場所を持つ。「財布のなかに千円札が一枚も入っていない」と言うとき、財布そのものは存在し、財布のなかに置かれているお札の枚数という量も計測可能であって、ただその値が偶然ゼロになっているにすぎない。ゼロは何かを欠いた状態を指すが、その「欠如」自体が一つの計測値、一つの座標、一つの数として確固たる地位を占めている。

数学史上、ゼロが「数」として認知されるまでには長い時間を要した。古代バビロニアにもマヤ文明にも位取り記数法は存在したが、空位を示す記号は、計算の対象となる数というよりも、むしろ書記法上の補助記号にすぎなかった。ゼロを数の仲間に加えたのはインド数学者たち、とりわけ七世紀のブラーマグプタであり、彼によって初めて、ゼロは加法・減法・乗法の対象として、すなわち他の数と平等な計算可能な実体として、数の体系に組み込まれた。これが第一章の主題となる。

第二の無 ―― None(空集合・空虚)

第二の「無」はnoneであり、数学的にはとりわけ集合論における空集合として現れる。空集合とは、要素を一つも持たない集合のことであり、記号的にはギリシア文字の縮約である∅、あるいは波括弧を空にした{}で表される。空集合は、ゼロという「数」とは決定的に異なる種類の対象である。なぜなら、空集合は数の体系の住人ではなく、集合という上位の構造に属する一個の集合として、それ独自の権利において存在しているからである。

空集合とゼロの違いを直観的に把握するためには、容器のメタファーが有用である。{0}という集合は「ゼロという要素が一つだけ入っている袋」であり、これに対して∅は「中身が一つも入っていない袋」である。前者には要素が存在し、後者には要素が存在しない。要素の個数を数えれば、前者の濃度は1であり、後者の濃度は0である。ゼロという数と、要素を持たない集合との混同は、集合論の基礎を学ぶ初学者がしばしば陥る最初の躓きであり、同時にカントール以降の現代数学が画然と区別してきた最も根本的な区別の一つである。

第三の無 ―― No(否定・不存在)

第三の「無」は、数や集合といった対象としての無ではなく、命題の真偽判定における「否」、すなわち否定や不存在を表すnoである。「方程式x²+1=0は実数解を持たない」と言うとき、ここでの「持たない」は、解が見つからなかったというよりも、実数の範囲では解が存在しえないという論理的・構造的な不可能性を指している。同様に、「最大の素数は存在しない」という命題は、ユークリッドの背理法によって厳密に証明される論理的真理であり、ここでの「無」は永遠に閉ざされた可能性として確定している。

論理学的なnoは、対象としてのzeroやnoneとは異なり、命題に対する操作子である。命題Pに対して、その否定¬Pを考えること、ある述語P(x)を満たすxが存在しないと述べること、これらはいずれも論理体系のなかで定義される構造である。さらにゲーデルの不完全性定理は、ある十分に強い形式体系のなかでは、真とも偽とも証明できない命題、すなわち体系的にyesともnoとも判定できない命題が存在することを示しており、これは論理におけるnoのさらに深い階層を切り拓く。

三つの無の相互関係

以上の三つの「無」――数としてのゼロ、集合としての空、論理としての否定――は、表面的には類似した日常的な「無い」という観念に淵源を持ちながらも、数学の体系のなかでは厳密に区別され、互いに独自の役割を果たしている。しかし同時に、これら三者は深いところで相互に連関してもいる。たとえばフォン・ノイマンによる自然数の構成においては、空集合∅から出発して、それを多重に入れ子にしてゆくことで、すべての自然数が定義される。すなわち、0=∅、1={∅}、2={∅,{∅}}といった具合である。ここでは数(zero)が集合(none)から構成されており、両者は構造的に深く絡み合っている。

また、論理におけるno、すなわち不存在の証明は、しばしば集合論的な空集合の言明として再定式化される。「P(x)を満たすxは存在しない」とは、「{x∣P(x)}=∅」と等価である。さらに、解析学における極限ゼロは、それ自体は数値ゼロでありながら、無限小という名のもとで、「ゼロではないがゼロに限りなく近い」という、論理的なnoとzeroの境界を行き交う特異な存在として、十九世紀以前の数学者を苦しめ続けた。

本書は、こうした三つの「無」の織りなす数学的宇宙を、十一の章にわたって巡礼する試みである。最初に数としてのゼロの歴史と代数を辿り(第一章・第二章)、次いで集合としての空の論理と逆説を考察し(第三章)、続いて論理的不存在と背理法、不完全性定理を探訪する(第四章)。さらに、ゼロに限りなく近づく無限小の概念から、解析学における特異点、計算機科学におけるNullの実装、物理学における真空と絶対零度、そして圏論とトポロジーにおける構造的な「無」へと議論は進み、最後に、空集合から自然数を構成するというフォン・ノイマンの輝かしい思考実験へと収束してゆく。

数学とは、しばしば「最も明瞭で最も厳密な学問」と称される。しかしその基礎を支えているのは、何かが「ある」という積極的な存在ではなく、しばしば何かが「ない」という消極的な状態の、徹底した形式化である。空集合から自然数が、ゼロから群論の単位元が、否定から証明の戦略が立ち上がってゆく。読者を本書は、数学が、いかに無を素材として全を組み上げる壮大な技芸であるかを目撃する旅へと誘うであろう。

本書の方法は、単一の専門領域に閉じこもらず、数学のさまざまな分野を横断する形で「無」を語ることにある。ある章では古代インドの数学者の苦闘を辿り、別の章では二十世紀の論理学者ゲーデルの自己言及命題に踏み込み、また別の章では一九六〇年代の超実数体や、現代計算機のNullポインタの「十億ドルの過ち」に立ち会う。一見すると、これらの主題はばらばらに散らばっているように見えるかもしれない。しかし、これらすべての裏には、人間の知性が「無いもの」をいかに語り、いかに記号化し、いかに操作するかという、ひとつの統一した問いが横たわっている。

無について語ることは、本来、極めて困難な営みである。「無」を主語にして文を書こうとすれば、その瞬間に「無」は文の主語という何ものかとして実体化されてしまう。この自己撞着は、古来から哲学者たちを悩ませてきた根本問題であり、ハイデガーが『形而上学とは何か』のなかで論じた「無は無化する」という命題に至るまで、繰り返し様々な姿で立ち現れてきた。数学が画期的なのは、この自己撞着を、形式記号の操作という極めて非ロマン的な手続きへと還元することによって、ある程度まで飼い慣らした、という点にある。空集合は記号∅で表され、ゼロは記号0で表され、否定は記号¬で表される。これらの記号は、それ自体は単なる墨の点や線の集合に過ぎない。しかし、それらの記号が、どのような他の記号とどのような規則で結合されうるかという、形式的な統語論を通じて、それぞれの「無」は明確な意味を獲得する。

数学のなかで「無」を扱う仕方は、しかし、決して機械的な記号操作に尽きるものではない。数学者たちはしばしば、新たな構造のなかで「無」がどう振る舞うかを直観的に感じ取り、その直観を頼りに新たな理論を構築する。アンドレ・ヴェイユは「神は実数を作りたもうた、他はすべて人間の作品である」というクロネッカーの言葉を引きつつ、しかし数学者の創造性が最も発揮されるのは、有限の枠を破って無限や無を扱う技法を発明する瞬間においてであることを述べた。空集合という概念を最初に「集合」として認めた瞬間、ゼロを最初に「数」として認めた瞬間、無限小を「ゼロでないがゼロに近い」量として操作することを最初に試みた瞬間――これらの瞬間は、いずれも厳密な記号操作以前の、直観的な大胆さを要した転回点であった。本書の各章を読みながら、読者には、こうした転回点における数学者たちの直観的な飛躍を、追体験していただきたい。

最後に、本書の読み方について一言しておく。本書は数学の専門書ではない。各章で扱われる数学的概念は、可能なかぎり平易な記述を心がけたが、それでも一定の数学的な背景知識を前提とする箇所はある。読者がそうした箇所で躓いても、深く悩む必要はない。本書の主題は技術的な細部ではなく、数学が「無」を扱う技法の、その思想的・歴史的・哲学的な広がりである。各章を独立した随筆として読むこともできるし、序章から終章までを通読することで、無の数理学の全体像を把握することもできる。読者の関心と読書のリズムに応じて、自由に本書を活用していただきたい。