第一部は、神学という学問の性格から始まり、神の本質・属性・三位一体、そして被造物の秩序全体を論じる。全119問から成り、神学大全中もっとも形而上学的に密度の高い部分である。
一 神学の性格(第一問)
アクィナスは冒頭で、神学(聖なる教義:Sacra Doctrina)が学問(Scientia)たりうるかという問いを立てる。アリストテレス的学問論によれば、学問は第一原理から演繹的に進む知識体系である。神学の第一原理は「信仰の条項(Articuli Fidei)」であり、これは神からの啓示に由来する。したがって神学は、普通の人間的学問とは異なり、啓示を第一原理とする「従属的学問(Scientia Subalternata)」であるとアクィナスは論じる。光学が幾何学の原理に依拠するように、神学は神自身の知識とそれに参与する祝福された者たちの知識に依拠する。
神学の学問的性格についてのこの規定は、信仰と理性の関係についてのアクィナスの根本的立場を示している。彼にとって信仰と理性は対立するものではなく、異なる出発点から同一の真理を探究する相補的営みである。自然的理性は自然の秩序から神についての一般的真理に到達できるが、三位一体・受肉・恩寵などの超自然的真理は啓示によってのみ知られる。しかしどちらも真理である以上、真に矛盾することはない。
二 神の存在(第二問)̶̶ 五つの道
第二問は「神は存在するか」という問いを扱い、哲学史上もっとも有名な神の存在証明のひとつ、「五つの道(Quinque Viae)」を展開する。アクィナスはまず「神の存在は自明ではない」という立場をとる。アンセルムスの本体論的証明(神は「それ以上のものが考えられないもの」であり、実在することが概念の内に含まれる)を退け、神の存在は感覚的経験から出発した推論によって証明されるべきだと主張する。
第一の道:運動(変化)からの論証(Via ex motu)
我々は世界に変化が存在することを見て取る。変化するものは何か他のものによって変化させられる。その変化の系列は無限に遡れない(無限遡行の不可能性)から、最初の不動の動者(Primum Movens Immobile)が存在しなければならない。これが神である。
第二の道:作用因からの論証(Via ex causa efficiente)
感覚世界には作用因の系列がある。いかなるものも自己自身の作用因ではありえない。作用因の系列を無限に遡ることはできない。ゆえに第一の作用因が存在しなければならない。
第三の道:可能性と必然性からの論証(Via ex possibili et necessario)
存在するものには、存在しないことも可能なものと、必然的に存在するものがある。もしすべてのものが「存在しないことも可能」であれば、かつて何も存在しない時があったことになる。しかし無からは何も生じない。ゆえに自己自身によって必然的に存在するもの(必然的存在者)がなければならない。
第四の道:段階性からの論証(Via ex gradibus rerum)
物事には善・真・貴等の度合いがある。度合いは最大のものとの比較において成立する。ゆえに最大限に善であり真であり貴いもの、すなわちあらゆる完全性の原因となるものが存在する。
第五の道:目的論的論証(Via ex gubernatione rerum)
知性を欠いた自然物も、恒常的なやり方で最善の目標へと向かって働く。これは偶然ではありえず、知性ある存在者によって秩序づけられているはずである。この秩序の根源が神である。
これら五つの道は、いずれも後ほどの思想家たちによって批判・再解釈されてきた。カントは、因果律は現象の世界内にしか妥当せず、世界の外なる神への推論は不当だと批判した。しかしアクィナスの論証は、自然科学的証明を意図するものではなく、存在論的・形而上学的な論証として理解すべきであり、その哲学的含意は現代においても議論の対象であり続けている。
三 神の本質と属性(第三問〜第二十六問)
神の存在を論証した後、アクィナスは神の本質について詳述する。ここで彼が採用する方法は「否定神学(Via Negativa / Apophatic Theology)」と肯定的述語の組み合わせである。
アクィナスによれば、神は「純粋現実態(Actus Purus)」である。可能態(Potentia)と現実態(Actus)の区別はアリストテレス哲学の根幹をなす概念であり、あらゆる被造物は可能態から現実態への移行を含むが、神においては何ら未実現の可能性がない。これは神の「単純性(Simplicitas)」の根拠となる。神は部分に分けられることなく、本質と存在が一致し(神においては「何であるか」と「ある」は同一である)、質料と形相の合成もない。
神の「完全性(Perfectio)」についてアクィナスは、あらゆる存在者の完全性は神のうちに予め完全なかたちで含まれていると論じる。被造物の完全性は神から分有されたものである。これは新プラトン主義の「流出論(Emanatio)」に近い発想であるが、アクィナスはそれを存在の類比論(Analogia Entis)として再定式化する。神と被造物の間には一義的(Univocal)な述語は適用できず、単なる多義的(Equivocal)述語でもなく、「類比的(Analogical)」な述語が適用される。
神の「永遠性(Aeternitas)」については、ボエティウスの定義「始まりも終わりもない生命の完全なる全的かつ同時的占有」を採用し、時間は変化の数であり、変化のない神には時間は適用されず、永遠とは時間の単なる無限延長ではなく、時間を超えた全存在の同時的現在であると論じる。
さらに「全知(Omniscientia)」「全能(Omnipotentia)」「善(Bonitas)」「無限性(Infinitas)」「遍在(Ubiquitas)」「不変性(Immutabilitas)」などの神の属性が詳細に論じられる。全能についてアクィナスは有名な議論を行う。「神は論理的矛盾を含む事柄(例えば丸い三角形)を作ることができるか」という問いに対し、論理的矛盾は存在論的に不可能であり、これを「できない」ことは全能の制限ではなく、論理的矛盾が「何かである」ではなく「無(nihil)」だからだと答える。
四 三位一体論(第二十七問〜第四十三問)
三位一体の教義は、キリスト教神学の核心をなす教義であり、純粋な哲学的理性によっては到達できず、啓示によって知られる真理である。アクィナスは、理性は三位一体の内的整合性を示すことはできるが、三位一体そのものを証明することはできないという立場を一貫して保持しながら、この教義の精緻な概念的分析を行う。
三位一体の内的な関係を説明するために、アクィナスは「発出(Processio)」の概念を用いる。神のうちには二つの発出がある。第一は「言葉(Verbum)の発出」であり、神が自己自身を知性的に認識する行為から「御言葉(ロゴス)」すなわち御子が発出する。第二は「愛(Amor)の発出」であり、父と子の相互の愛の行為から聖霊が発出する。
これらの発出から「関係(Relatio)」が生じる。父と子の間には「産む」と「産まれる」という関係があり、父と聖霊の間には「息吹く」と「息吹かれる」という関係がある。これら「対立した関係(Relatio Opposita)」こそが三つのペルソナを区別する原理である。すなわち、父・子・聖霊を区別するのは本質(これは一である)ではなく、関係によって構成されたペルソナである。
アクィナスはアウグスティヌスの三位一体論を深化させ、父は「記憶(Memoria)」、子は「知性(Intellectus)」、聖霊は「意志・愛(Voluntas / Amor)」に対応するという「心理的類比」を採用しつつ、これが完全な類比ではなく近似的説明にすぎないことを認める。
五 創造論(第四十四問〜第四十九問)
アクィナスの創造論は「無からの創造(Creatio ex nihilo)」の教義を哲学的に解明することを目指す。アリストテレスの宇宙論は永遠の世界を想定し、創造という概念を持たなかったが、アクィナスはアリストテレスの存在論的枠組みを用いつつ、世界には神から区別された独立した存在根拠がなく、神の自由な意志的行為によって存在させられたと論じる。
世界の「永遠性」についての議論は興味深い。アクィナスは、世界が永遠に存在してきたかどうかは、信仰によって否定されるものの、哲学的理性によってどちらとも証明されないと主張する。すなわち、世界が有限な時間的歴史を持つことは信仰の条項(「創世記」の創造)であって哲学的デモンストレーションではない。これは当時の神学的正統性から見て大胆な立場であった。
六 天使論(第五十問〜第六十四問)
中世神学における天使論は、単なる聖書的存在物の記述に留まらず、霊的・純粋知性的存在者の本質についての哲学的探究を含む。アクィナスの天使論はきわめて精緻であり、天使は「質料なき純粋形相(Forma Subsistens)」であると規定される。
各天使は独自の種(Species)を構成する。なぜなら個体を複数作るには質料が必要であり、質料を持たない天使は個体であると同時に種を構成するからである。したがって天使の数は哲学的に決定できないが、それぞれが唯一無二の存在として把握される。
天使の知性について、天使は感覚器官を持たないため人間のように感覚から概念を抽象するのではなく、神から直接注入された「生得観念(Species Infusae)」によって知る。また天使は時間内に変化するものではなく、「刹那的現在(Nunc)」において全体として自己の認識行為を行う。
天使の「堕落(Lapsus Angelorum)」については、悪魔論との関連で論じられる。善の天使たちは創造の瞬間に神の恩寵を受け入れ、最終的な至福(Beatitudo)に確立されたが、サタン(ルシファー)は傲慢によって被造物として自己に固有の善さを神に優先させようとし、罪を犯した。これは天使の意志の自由な行使による堕落である。
七 人間論(第七十五問〜第百二問)
第一部の末尾に置かれた人間論は、天使論と動物論の間に位置づけられ、人間を「理性的動物(Animal Rationale)」として、魂と身体の合成体として論じる。
アクィナスの魂論の根幹は「ヒュレモルフィズム(Hylomorphism)」の人間への適用である。アリストテレスに倣い、魂は身体の「形相(Forma)」であり、身体は魂の「質料(Materia)」である。魂は身体と合わさって初めて完全な人間を形成する。これはプラトン的二元論とは異なり、魂は身体内に囚われた異質な存在ではなく、身体と内的に結合した形相である。しかしアクィナスはアリストテレスの枠組みを超えて、知性的魂(Anima Intellectiva)は非質料的であり、身体の腐敗後も個別に存続しうる「魂の不死性」を論じる。
知性論では、アリストテレスの「能動知性(Intellectus Agens)」と「受動知性(Intellectus Possibilis)」の区別が採用される。アクィナスはアヴェロエスの「知性単一論(Monopsychism)」、すなわち能動知性がすべての人間に共通する一つの超個体的知性であるという立場を激しく批判し、各個人がそれぞれ固有の知性を持つと主張した。個体知性の立場は人格的道徳責任・救済の個体性と直結する神学的問題でもあった。