一 生涯と知的形成
トマス・アクィナスは、1225年頃にイタリア南部のアクィーノ近郊のロッカセッカ城に貴族の末子として生まれた。五歳でモンテ・カッシーノのベネディクト会修道院に預けられ、幼少から修道院的知的環境のなかで成長した。1239年からナポリ大学で学び、そこでアリストテレス哲学に出会う。1244年、家族の激しい反対を押し切ってドミニコ会(説教者修道会)に入会したことは、彼の生涯の方向性を決定づける選択であった。
ドミニコ会に入会したトマスは、パリ大学でアルベルトゥス・マグヌス(大アルベルトゥス)のもとで学んだ。アルベルトゥスはアリストテレスの著作をキリスト教神学と総合する大胆な試みを行っており、若きトマスはここで知的発酵の場に身を置くことになる。コローニュで学んだ後、パリに戻り1256年に神学博士号を取得、パリ大学の神学教授となった。以後、パリとイタリアを往来しながら旺盛な著述活動を展開し、1273年に書くことを止め、翌1274年にリヨン公会議への途上で没した。生涯に著した著作は膨大であり、『異教徒に対する神学大全』『諸命題集注解』『アリストテレス注解』など多数にのぼる。
二 スコラ学の知的文脈
アクィナスが活動した13世紀は、スコラ哲学の黄金期である。この時代の西ヨーロッパは、アラビア語訳を経由してアリストテレスの著作が大量に流入し、それに対する知的興奮と神学的警戒が交差する緊張の時代であった。1210年、1215年、1231年とパリ大学ではアリストテレスの自然学・形而上学の講義が断続的に禁止されていたが、やがてその禁令は有名無実となり、13世紀中葉にはアリストテレスなしに神学を語ることは不可能な状況になっていた。
この文脈でアクィナスが果たした役割は革命的である。彼は、アリストテレス哲学をキリスト教神学と「敵対するもの」として退けるのでも、無批判に受け入れるのでもなく、キリスト教的枠組みのなかに批判的・創造的に統合しようとした。その際、イスラム哲学者アヴィセンナ(イブン・シーナー)とアヴェロエス(イブン・ルシュド)の解釈、ユダヤ哲学者マイモニデスの議論も積極的に参照した。アクィナスのこの総合的試みは「スコラ学的総合(Scholastic Synthesis)」と呼ばれ、中世思想史の頂点とみなされている。
三 神学大全の成立と構成
『神学大全』の執筆は、アクィナスが1265年ごろローマ教皇庁において始め、以後死の年まで継続された。全体は第一部(De Deo: 神について)、第二部前半(De Homine ad Deum tendente: 神へと向かう人間の一般論)、第二部後半(同:各論)、第三部(De Christo: キリストについて)から成り、第三部は未完に終わった。アクィナスの弟子たちが後に補遺(Supplementum)を付加して全体を完成させている。
問題形式(Quaestio)による構成は、まず全体テーマに関する問いを立て、それを複数の「問項(Articulus)」に分割し、各問項について先述の反論・反証・答え・各反論への応答の四段構造で論じる。この形式は一見機械的に見えるが、実際にはきわめて精緻な弁証法的思考の産物であり、反論として紹介される見解は単なる藁人形ではなく、アクィナスが真剣に取り組む対話者の主張である。
全体の分量は現代語訳で数十巻に及び、問題の数は第一部119問・第二部前半114問・第二部後半189問・第三部90問・補遺99問という膨大なものである。この百科全書的な著作の執筆期間は約10年に満たず、その生産性の高さはアクィナスの旺盛な知的エネルギーを示している。