第八章:個別交響曲の圏論的分析

第八章 個別交響曲の圏論的分析

8.1 第三番交響曲の圏論的分析

8.1.1 ワーグナー引用の削除と函手的観点

第三番交響曲における版間の最も劇的な変化は、ワーグナー作品への引用の削除である。第一稿(1873年版)には「タンホイザー」序曲のテーマ、「ヴァルキューレ」の「眠りの動機」、「トリスタンとイゾルデ」の「欲望の動機」、「神々の黄昏」の素材が織り込まれていた。これらは第二稿(1877年版)において大幅に削除・変形された。

圏論的に分析しよう。引用素材の集合を R(References)とする。第一稿における引用は「埋め込み函手」

ι : 𝐑𝐞𝐟 → 𝐁𝐫𝐮𝐜𝐤₃¹

によって形式化できる。第二稿への改訂射 rev₁₂ : v₃¹ → v₃² は、この埋め込みの「像(image)」を消去する。

ここで重要な問いは、rev₁₂ の後に 𝐑𝐞𝐟 から 𝐁𝐫𝐮𝐜𝐤₃² への函手が存在するかどうかである。もし第二稿においても(隠れた形で)ワーグナー的素材が「痕跡」として残存しているならば、弱い意味での函手(忠実でない函手)が存在する可能性がある。音楽学的研究は、第三稿においてもワーグナーの影響が和声語法のレベルで持続していることを指摘しており、これは圏論的に言えば「忘却函手的な痕跡」として形式化できる。

8.1.2 第三番の三版の圏論的位置づけ

第三番の三版を圏論的に位置づけると以下のようになる。

第一稿 v₃¹ は「最も豊かな対象」であり、ワーグナー引用・長大な構造・複雑な和声を持つ。圏論的には、v₃¹ は𝐁𝐫𝐮𝐜𝐤₃ において「最も多くの射が出ていく対象」(initial-object に近い性格)を持ちうる。

第三稿 v₃³ は「最もコンパクトで演奏可能な対象」であり、大幅に整理された素材と明快な構造を持つ。v₃³ は 𝐁𝐫𝐮𝐜𝐤₃ において「最も多くの射が入ってくる対象」(terminal-object に近い性格)を持ちうる。

第二稿 v₃² はその中間に位置し、第一稿から第三稿への「遷移状態(transition state)」として機能する。圏論的には、v₃² は引き戻し(v₃¹ と v₃³ の「公約数」)には近いが、それ自体が引き戻しとなっているわけではない(v₃² は独立した対象として固有の性質を持つ)。

8.2 第四番交響曲の圏論的分析

8.2.1 スケルツォ置換の余積的解釈

第四番の最大の版問題は第三楽章スケルツォの置換であることは既に述べた。この置換を圏論的に捉えると、第一稿の版圏と第二稿の版圏は「スケルツォ圏(Scherzo Category)」における射の存在において本質的に異なる。

スケルツォ圏 𝐒𝐜𝐡 の対象として Sch₄¹(第一稿スケルツォ)と Sch₄²(第二稿スケルツォ)を設定すると、𝐒𝐜𝐡(Sch₄¹, Sch₄²) の射の集合がほぼ空(または自明な射のみ)であることが、置換の「不連続性」を表す。

これに対して、第四番の他の楽章(第一楽章・第二楽章・第四楽章)における版間の変換は、比較的豊かな射の構造を持つ。この対比は、版圏 𝐁𝐫𝐮𝐜𝐤₄ が「連続的変化の部分」と「不連続的置換の部分」という異質な射の構造から成る「混合的圏(hybrid category)」であることを示す。

8.2.2 第四番の「ロマンティック」称号と圏論的同一性

「ロマンティック」という標題が付されているのは主として第二稿(1878–80年版)であり、第一稿は必ずしもこの称号と結びついて意図されたわけではない。この事実は版の「同一性」問題を提起する。

「第四番ロマンティック」という作品の同一性を圏論的に問うと:作品の同一性は特定の版によって定義されるのではなく、版圏における「不変量(invariant)」によって定義される、という立場が可能である。版圏の不変量とは、すべての版から同じ値を返す函手 F:

∀rev : v → w, F(v) ≅ F(w)

であるような函手のことである。「第四番ロマンティック」の不変量の候補としては、全体的な調性設計(変ホ長調)、四楽章構成、「ロマンティックな自然描写」という標題的性格、特定の主題的細胞(最初の第一主題のリズム型等)がある。

8.3 第八番交響曲の圏論的分析

8.3.1 1887年版と1890年版の射の詳細分析

第八番の二つの自筆稿の間の射 rev : v₈¹ → v₈² を詳細に分析しよう。この射は楽章ごとに異なる性格を持つ。

【第一楽章】:展開部のカット、再現部の変更、コーダの全面書き直しという大規模な変更が行われた。特にコーダは1887年版では主音ハ短調で終わるが(第一楽章独立の終止)、1890年版では長大な長調的コーダに変更された。この変更は「楽章の意味(narrative)」を根本的に変える変換であり、変換射の性格を持つ。

圏論的に言えば、第一楽章の射 rev_I : v₈¹|_I → v₈²|_I は非同型射(non-isomorphic morphism)であり、逆射が存在しない。1887年版第一楽章の「暗い」終結は1890年版に復元できない。

【第二楽章(スケルツォ)】:主要素材は両版で共通しており、差異は細部の管弦楽法と中間部(トリオ)の一部にある。これは比較的「弱い変換」であり、スケルツォの射 rev_II : v₈¹|_II → v₈²|_II は「ほぼ同型」と言える。

【第三楽章(アダージョ)】:1887年版(約24分)から1890年版(約28分)への拡張は、主として展開部の充実によるものである。この変換は拡張射の典型であり、1887年版の内容は1890年版に埋め込まれている——すなわち モノ射的性格を持つ。

【第四楽章(フィナーレ)】:両版で異なる点が多く、特に中間部の組み立てと再現部の構成に大きな差異がある。また「コラール主題(Chorale theme)」の提示の仕方も版によって異なる。この射は変換射と削除射の複合的性格を持つ。

8.3.2 ハース版の圏論的地位

ハース版 v₈ᴴ の圏論的地位は、版圏 𝐁𝐫𝐮𝐚𝐜𝐤₈ において最も興味深い問題を提起する。

ハース版は積(product)的存在か、余積(coproduct)的存在か、押し出し(pushout)的存在か——これが問題の核心である。

ハース版が積 v₈¹ × v₈² であるとすれば、v₈ᴴ から v₈¹ への射影と v₈² への射影が存在し(これは対応する)、かつ任意の版 X に対して X → v₈¹ と X → v₈² の「組」から唯一 X → v₈ᴴ が得られる(これは成立しない——ハース版の折衷的要素がこの一意性を破壊する)。

より正確には、ハース版は「弱い積(weak product)」または「部分的押し出し(partial pushout)」として特徴づけられる。ハースの編集的判断は圏論的普遍性を持たず、したがってハース版は版圏の普遍的構成物ではなく、「一つの解釈的選択」に過ぎないという厳しい結論が导かれる。これは学術的には長く批判されてきたハース版の問題点を、圏論的言語で精密に表現したものである。

8.4 第九番交響曲の圏論的分析

8.4.1 未完成という「未完の対象(incomplete object)」

第九番は三楽章完成・一楽章未完という特殊な状況にある。この「未完成性」を圏論的にどう扱うか。

一つのアプローチは、「部分的対象(partial object)」の概念を導入することである。完成した対象(版)に対して、部分的対象は「一部の定義域においてのみ定義された射」しか持たない。第九番の完成三楽章は完全な対象として、フィナーレは「部分的対象」として扱われる。

より洗練されたアプローチは、フィナーレのスケッチを「射の集合(family of morphisms)」として捉えることである。スケッチには多くの「アイデアの断片(fragments of ideas)」が含まれており、これらは「潜在的射(potential morphisms)」のプールとして形式化できる。補完の試みは、このプールから特定の射を選択して「完成した射」を構成する操作として捉えられる。

8.4.2 補完版の圏論的地位

フィナーレの補完を試みた版(サマーレ=フィリップス=コールス=マッツーカ版等)は、版圏においてどのような地位を占めるか。

補完版 v₉ᶜ の圏論的地位は、スケッチ素材 Sk から出発して「自由に構成された(freely constructed)」対象として捉えることができる。具体的には、スケッチの圏 𝐒𝐤 から版圏への函手 F : 𝐒𝐤 → 𝐁𝐫𝐮𝐜𝐤₉ において、補完版は F の「左随伴(left adjoint)」的構成物として位置づけられる可能性がある。

左随伴は「自由構成(free construction)」を与えることが多い。スケッチ素材から「最も自由な補完版」(すべての可能な補完と整合する普遍的補完版)を構成することは、余自由対象(co-free object)の構成に相当する。しかし実際の補完版は、作曲家・編曲家の美学的判断によって「自由度」が制限されており、真の意味での普遍的補完版ではない。

この圏論的分析から得られる結論は:フィナーレの「真の」補完版は版圏においても余自由対象でも終対象でもなく、複数の潜在的補完のなかの「一つの選択」に過ぎないという、演奏実践上の謙虚な認識につながる。