第二部前半は人間の道徳的行為の一般理論を展開し、全百十四問から成る。幸福論・意志論・感情論・徳論・法論・恩寵論という構成は、神学的倫理学の体系として今日においても卓越した達成を示している。

一 至福論(第一問〜第五問)

アクィナスの倫理学は目的論(Teleology)に基礎を置く。人間のすべての行為は何らかの目的へと向けられており、あらゆる目的の「最終目的(Ultimus Finis)」として「幸福(Beatitudo)」がある。アリストテレスの「エウダイモニア」を神学的に変容させたアクィナスの幸福論は、最終的な幸福を「神の直観的認識(Visio Beatifica)」に置く。

アクィナスは、幸福を富・名誉・権力・快楽などの外的財に置く見解をすべて退ける。真の幸福は人間の最高の能力である知性の最高の対象である神を直観的に認識することにある。しかし「神の直観的認識」は自然的理性の能力を超えており、神の恩寵の賜物(Donum Gratiae)なしには達成できない。これが「超自然的至福(Beatitudo Supernaturalis)」であり、自然的幸福(現世における知的徳の実践)とは質的に異なる次元にある。

二 人間行為論(第六問〜第二十一問)

道徳的評価の対象となるのは「人間の行為(Actus Humanus)」である。これは単に人間が行う行為(Actus Hominis、例えば心臓の拍動・消化)ではなく、知性と意志による自由な行為でなければならない。

意志の分析においてアクィナスは、意志(Voluntas)は知性によって提示された善に向かう本性的な傾向性であるとする。意志の自由は「無差別の自由(Liberum Arbitrium)」であり、具体的な行為の選択において知性が善悪を識別し意志がそれに基づいて選択する過程を詳細に分析する。知性の最終判断(Ultima Judicium Intellectus Practici)と意志の選択(Electio)は相互に絡み合いながら、人間の自由な道徳的行為を構成する。

行為の道徳的評価は「対象(Objectum)」「目的(Finis)」「状況(Circumstantiae)」の三要素によって行われる。行為が道徳的に善であるためにはこの三要素すべてが善でなければならず、いずれかが欠ければ行為は悪となる。「目的は手段を正当化しない」という倫理的原則はアクィナスの思想の核心にある。

三 感情論・情念論(第二十二問〜第四十八問)

アクィナスは人間の感情(Passiones Animae)を体系的に分類・分析する。感情は「感受能力(Appetitus Sensitivus)」の運動であり、欲望的能力(Appetitus Concupiscibilis)と憤怒的能力(Appetitus Irascibilis)の二種に分かれる。

欲望的能力から生じる基本的感情は、愛(Amor)・憎しみ(Odium)・欲望(Desiderium)・嫌悪(Fuga)・喜び(Gaudium)・悲しみ(Tristitia)の六つである。憤怒的能力からは、希望(Spes)・絶望(Desperatio)・恐れ(Timor)・大胆(Audacia)・怒り(Ira)の五つが生じる。これら合計十一の基本感情が詳細に分析される。

アクィナスの感情論の特徴は、感情を単に理性によって制御されるべき非合理的衝動とみなすストア的立場を退け、感情そのものが徳によって形成されれば道徳的生の積極的要素となりうると論じた点にある。これはアリストテレスの立場に沿うものであり、感情の道徳的中立性・潜在的積極性の承認である。

四 習慣・徳・悪徳(第四十九問〜第八十九問)

徳(Virtus)はアクィナスの倫理学の中心概念である。徳は「ある能力を善い働きへと秩序づける確立した性向(Habitus)」と定義される。習慣(Habitus)は反復的な行為によって形成される安定した心的傾向性であり、徳は善い行為へと傾ける良い習慣、悪徳(Vitium)は悪い行為へと傾ける悪しき習慣である。

知的徳(Virtutes Intellectuales)には、理解(Intellectus)・知識(Scientia)・知恵(Sapientia)という思弁的知的徳と、技術(Ars)・実践的知恵(Prudentia)という実践的知的徳がある。道徳的徳(Virtutes Morales)は感情と行為に関わる習慣であり、アリストテレスの「中庸(Mesotes)」理論を採用して、各徳は過剰と不足という二つの極端の中間に位置すると論じる。

四つの「枢要徳(Virtutes Cardinales)」はプラトン以来の伝統的な枠組みである。賢慮(Prudentia)・正義(Justitia)・剛毅(Fortitudo)・節制(Temperantia)がこれである。賢慮は知的徳であると同時に道徳的徳の中心をなし、何が「今ここで」善い行為であるかを判断する実践的識別の能力である。正義は他者への正当な関係を維持する意志的傾向性であり、交換的正義・配分的正義・法的正義の三種に分かれる。

神学的徳(Virtutes Theologicae)は信仰(Fides)・希望(Spes)・愛徳(Caritas)の三つであり、これらは自然的理性では獲得できず、神の恩寵によって注入(Infusio)される。愛徳はすべての徳の「形相(Forma)」であり、愛徳なくして他の徳も真の意味での徳とはなりえないとアクィナスは論じる。

悪徳については「七つの大罪(Septem Peccata Capitalia)」が論じられる。高慢(Superbia)・貪欲(Avaritia)・色欲(Luxuria)・怒り(Ira)・暴食(Gula)・嫉妬(Invidia)・怠惰(Acedia)がこれである。これらは「罪の源泉(Capita Vitiorum)」であり、他の悪徳を派生させる根本的な悪しき傾向性として理解される。

五 法論(第九十問〜第百八問)

アクィナスの法論は中世政治哲学・法哲学の頂点をなす体系的成果である。法は「共同体を管理する権威ある者によって制定・公布された、共通善のための理性の定め(Ordinatio Rationis ad Bonum Commune)」と定義される。

法は四種に分類される。第一は「永遠法(Lex Aeterna)」であり、神の知性において世界全体を秩序づける神的摂理の計画そのものである。第二は「自然法(Lex Naturalis)」であり、永遠法への理性的被造物の参与である。人間は理性によって自然法を認識し、「善をなし悪を避けよ」という基本原理を把握する。第三は「人定法(Lex Humana)」であり、自然法の原理から人間が具体的状況に応じて演繹・特定化した法であり、実定法に相当する。第四は「神法(Lex Divina)」であり、旧約律法と新約律法(恩寵の法)を含み、自然法の知識を補完し確認し、また自然法を超えた超自然的目的への方向づけを与える。

自然法論は20世紀においても活発に議論される。ジャック・マリタン、ジョン・フィニスらはアクィナスの自然法論を現代的文脈で再解釈し、人権論・政治哲学の基礎として位置づけた。アクィナスの自然法論の核心は、「人間の自然的傾向性(Inclinationes Naturales)」から道徳的規範が導き出せるという命題にあり、これはヒュームの「存在から当為への橋渡し不可能性」問題と今日も緊張関係にある。

六 恩寵論(第百九問〜第百十四問)

第二部前半の末尾に置かれた恩寵論は、倫理学から神学的人間論への橋渡しをなす。人間は罪によって傷つき、自然的能力のみでは真の幸福には到達できない。神の恩寵(Gratia)は、神が無償で与える超自然的な善であり、人間の意志を破壊せず、むしろそれを真の自由へと引き上げる。

恩寵と自由意志の関係は神学史上もっとも論争的な問題のひとつである。アクィナスは恩寵が意志に「先行」し(先行恩寵:Gratia Praeveniens)、意志の同意を引き出すが、恩寵の働きによって同意する意志は自由であると論じる。モリニズム論争(16‒17世紀)やヤンセニズム論争においてアクィナスの立場の解釈を巡って激しい論争が展開されたことは、この問題の深刻さを示している。