第五章:函手による版間変換の形式化
第五章 函手による版間変換の形式化
5.1 演奏実践の圏(Performance Category)
ブルックナーの版問題を圏論的に分析する際、版の圏(𝐁𝐫𝐮𝐜𝐤)だけでなく、演奏実践の圏(𝐏𝐞𝐫𝐟)も構成する必要がある。演奏実践の圏において、対象は「特定の指揮者・オーケストラによる特定の演奏(またはその録音)」であり、射は演奏間の「解釈的関係」を表す。
5.1.1 演奏圏の対象
π = (C, O, V, D, R)
ここで C は指揮者、O はオーケストラ、V は使用した版(𝐁𝐫𝐮𝐜𝐤 の対象)、D は演奏日、R は録音情報(存在する場合)。演奏圏 𝐏𝐞𝐫𝐟₈ の対象の例:
π₈¹ = (Böhm, VPO, v₈ᴴ, 1976, DG) [ベーム/VPO, ハース版]
π₈² = (Karajan, BPO, v₈ᴺ², 1988, DG) [カラヤン/BPO, ノヴァーク版]
π₈³ = (Celibidache, MPO, v₈ᴺ², 1994, EMI) [チェリビダッケ/MPO]
π₈⁴ = (Wand, BPO, v₈ᴺ¹, 2001, RCA) [ヴァント/BPO, 1887年版]
5.1.2 演奏間の射
演奏間の射は、解釈的継承関係(ある指揮者の解釈が別の指揮者に影響を与えた)、版の影響関係(版の変更が演奏の特徴に影響した)、時代的変化(同じ指揮者による異なる時期の演奏)などによって定義される。
5.2 版函手(Version Functor)
版圏から演奏圏への函手 V̂ : 𝐁𝐫𝐮𝐜𝐤₈ → 𝐏𝐞𝐫𝐟₈ を「版函手(Version Functor)」と呼ぼう。この函手は各版に対してその版を使用した代表的な演奏を対応させ、版間の射(改訂・校訂)に対して演奏間の射(解釈的変化)を対応させる。
V̂(v₈ᴴ) ≈ π₈¹ [ハース版 → ベームの演奏(代表例)]
V̂(v₈ᴺ²) ≈ π₈² [ノヴァーク1890年版 → カラヤンの演奏]
版函手 V̂ が「忠実(faithful)」であることは、版の差異が演奏の差異に忠実に反映されることを意味する。逆に V̂ が忠実でない場合、異なる版を用いながら似た演奏をする指揮者(または同じ版を使いながら大きく異なる解釈をする指揮者)が存在することになる。
実際の演奏実践を見ると、版函手は必ずしも忠実ではない。例えば、チェリビダッケのブルックナー演奏は版の違いよりも彼自身の解釈的個性(極端に遅いテンポ、長い残響での演奏)によって特徴づけられ、版差異の影響は相対化される。
5.3 解釈函手(Interpretation Functor)
演奏実践において重要なのは、指揮者が版の差異をいかに解釈するかという「解釈」の問題である。解釈函手 Ψ : 𝐈𝐧𝐭 → 𝐏𝐞𝐫𝐟 は、解釈の圏(𝐈𝐧𝐭、指揮者の美学的立場・版に対する態度等を対象とする)から演奏圏への写像を表す。
解釈圏の対象の例:
ι₁ = 「初稿主義」(作曲者の最初の意図を最重視)
ι₂ = 「最終稿主義」(作曲者の最後の意図を最重視)
ι₃ = 「歴史的批判的立場」(最良の校訂稿を使用)
ι₄ = 「演奏的折衷主義」(演奏効果を最大化する版を選択)
解釈函手 Ψ が充満(full)でないことは、演奏実践で実現されているすべての演奏が解釈の圏の射から説明できるわけではないことを意味する。例えば、ハース版を使用しながら「最終稿主義」を標榜するという一見矛盾した立場は、解釈圏から演奏圏への函手において対応する射がない「ギャップ」として現れる。
5.4 版の普遍性と余限(Colimit)
複数の版が存在する交響曲において、「すべての版を包括する普遍的な版」という概念は、余限(colimit)の概念によって形式化できる。
5.4.1 版圏の余限としての「超版」
版圏 𝐁𝐫𝐮𝐜𝐤₈ における余積(coproduct)は、第八番のすべての版の「和(union)」を表す。しかし真に有用なのは、版間の関係を考慮した余限(colimit)である。版の「貼り合わせ(gluing)」として得られる余限は、各版の固有の素材を保ちながら版間の関係を「折りたたんだ(folded)」対象を与える。
colim(v₈¹, v₈², v₈ᴴ, …) = v₈^∞ [「超版」]
この「超版」v₈^∞ は実際に演奏可能な版ではなく、「すべての版を統合した抽象的な版」である。圏論的には、v₈^∞ からの射が任意の版への射を分解できる(普遍性)という性質によって特徴づけられる。この概念は、ブルックナー研究者が「理想的なブルックナー」について語るときの直感的概念に対応する形式的実体として機能しうる。
5.4.2 余限と実践的版選択の関係
演奏者にとって実践的に重要なのは、余限の「普遍性(universal property)」である。もし「超版」v₈^∞ から特定の演奏 π への射が存在すれば、どの版を使用してもその演奏は理論上実現可能であることになる。逆に、特定の版 v からのみ π への射が存在し他の版からは射が存在しない場合、演奏 π はその版に本質的に依存していることが示される。
これは「版選択のオブリゲーション(obligation of version choice)」という実践的問題に形式的根拠を与える。演奏者が特定の版を「必ず選ぶべき」かどうかは、その演奏が目指す解釈の圏論的性質によって部分的に決定される。