第三章:版を対象とする圏の構成

第三章 版を対象とする圏の構成

3.1 版圏(Version Category)の定義

本章では、ブルックナー交響曲の版を対象とする圏(以下「版圏」と呼ぶ)を構成する。これには音楽理論的判断と圏論的定式化の両方が必要である。

まず、ブルックナー交響曲全体の版圏 𝐁𝐫𝐮𝐜𝐤 を定義しよう。

3.1.1 対象の定義

𝐁𝐫𝐮𝐜𝐤 の対象は、ブルックナーの番号付き交響曲(第一番から第九番、および第零番・習作交響曲)のオーセンティックな稿(Fassung)の集合である。各対象は以下の情報を持つ組として形式化される。

v = (S, n, d, e, 𝕊)

ここで S は作曲者(ブルックナー本人または監督下の改訂者)、n は交響曲番号、d は完成・改訂年代、e は初演または出版の情報、𝕊 は楽譜の記号的内容(音高・リズム・ダイナミクス・テンポ指示・管弦楽法の完全な記述)である。𝕊 の定式化は最も困難な部分であり、本章 3.3 節で詳述する。

例えば、第八番交響曲の主要な版は以下の対象として表される。

v₈¹ = (Bruckner, 8, 1887, ―, 𝕊₈¹) [1887年版]

v₈² = (Bruckner, 8, 1890, 1892, 𝕊₈²) [1890年版]

v₈ᴴ = (Haas, 8, 1939, 1939, 𝕊₈ᴴ) [ハース版]

v₈ᴺ¹ = (Nowak, 8, 1955, 1955, 𝕊₈ᴺ¹) [ノヴァーク版1887]

v₈ᴺ² = (Nowak, 8, 1956, 1956, 𝕊₈ᴺ²) [ノヴァーク版1890]

3.1.2 射の定義

𝐁𝐫𝐮𝐜𝐤 の射は版間の「変換関係」を表す。射 f : v → w は、版 v から版 w への何らかの変換プロセスが存在することを意味する。射の種類として以下を識別する。

【改訂射(Revision Morphism)】:ブルックナー自身による改訂を表す射。

rev : v₃¹ → v₃² [第三番第一稿から第二稿への改訂]

【校訂射(Edition Morphism)】:学術的校訂者による版の作成を表す射。

ed : v₈¹ → v₈ᴺ¹ [1887年自筆稿からノヴァーク版へ]

【包含射(Inclusion Morphism)】:一方の版が他方の版の素材を包含する関係を表す射。

inc : v₈¹ → v₈ᴴ [ハース版が1887年版の素材を包含]

【解釈射(Interpretation Morphism)】:特定の演奏解釈から別の解釈への変換。

恒等射は各版から自己への「同一変換」であり、合成は変換の連鎖として定義される。

3.2 個別交響曲の版圏

3.2.1 第三番交響曲の版圏 𝐁𝐫𝐮𝐜𝐤₃

第三番交響曲の版圏 𝐁𝐫𝐮𝐜𝐤₃ の対象は以下の通りである。

ob(𝐁𝐫𝐮𝐜𝐤₃) = {v₃¹, v₃², v₃³, v₃ᴺ¹, v₃ᴺ², v₃ᴺ³}

ここで v₃¹(1873年版第一稿)、v₃²(1876–77年版第二稿)、v₃³(1888–89年版第三稿)はブルックナーの自筆稿に対応し、v₃ᴺ¹、v₃ᴺ²、v₃ᴺ³ はそれぞれのノヴァーク校訂版である。

射の構造は以下の通りである。

rev₁₂ : v₃¹ → v₃² [第一稿から第二稿への大規模改訂]

rev₂₃ : v₃² → v₃³ [第二稿から第三稿への改訂]

ed₁ : v₃¹ → v₃ᴺ¹ [第一稿のノヴァーク版校訂]

ed₂ : v₃² → v₃ᴺ² [第二稿のノヴァーク版校訂]

ed₃ : v₃³ → v₃ᴺ³ [第三稿のノヴァーク版校訂]

rev̄₁₂ : v₃ᴺ¹ → v₃ᴺ² [校訂版における改訂関係]

この圏構造において注目すべきは、改訂射 rev₁₂ が本質的に情報を「減少」させる方向への変換である点である。第一稿から第二稿への改訂では、ワーグナー・ベートーヴェン・リストへの引用が削除され、多くの音楽的素材がカットされた。この意味で rev₁₂ はモノ射ではなく(単射でなく、情報が失われる)、またエピ射でもない可能性がある(第一稿の全要素が第二稿に「覆われる」わけではない)。

3.2.2 第四番交響曲の版圏 𝐁𝐫𝐮𝐜𝐤₄

第四番の版圏はスケルツォの問題から特に興味深い構造を持つ。

ob(𝐁𝐫𝐮𝐜𝐤₄) = {v₄¹, v₄¹ˢ, v₄², v₄³, v₄ᴺ¹, v₄ᴺ², v₄ᴺ³}

ここで v₄¹ˢ は1878年の「猟のスケルツォ」版を指す。1874年版(v₄¹)は一つのスケルツォを持ち、1878年版(v₄²)では別のスケルツォ(v₄¹ˢ の素材)に差し替えられている。これは単純な「改訂」というより、第三楽章の対象が実質的に置き換わる「版の構成要素の交換(substitution)」である。

この状況を射として形式化すると、1874年版スケルツォ(Sch₄¹)から1878年版スケルツォ(Sch₄²)への射は、通常の「改訂射」ではなく「置換射(substitution morphism)」として別途定義する必要がある。これは第四番の版圏が単純な線形構造ではなく、より複雑な分岐構造を持つことを意味する。

3.2.3 第八番交響曲の版圏 𝐁𝐫𝐮𝐜𝐤₈

第八番の版圏は最も豊かな構造を持つ。

ob(𝐁𝐫𝐮𝐜𝐤₈) = {v₈¹, v₈², v₈ᴴ, v₈ᴺ¹, v₈ᴺ², v₈ᶜ, …}

ここで v₈ᶜ はキャラガン版その他の後続校訂版を表す。射の複雑な網目(web)が存在する。

rev : v₈¹ → v₈² [1887年版から1890年版への改訂]

ed_H : (v₈¹, v₈²) → v₈ᴴ [ハース版:折衷的構成]

ed_N¹ : v₈¹ → v₈ᴺ¹ [ノヴァーク1887年版]

ed_N² : v₈² → v₈ᴺ² [ノヴァーク1890年版]

ハース版への射 ed_H が特殊なのは、その始域が単一の版ではなく、二つの版の対(v₈¹, v₈²)であることである。これは通常の射(一つの対象から別の対象への矢印)ではなく、積(product)の射として扱う必要がある。すなわち ed_H : v₈¹ × v₈² → v₈ᴴ という射として定式化できる。

3.3 楽譜内容の形式化:記号論的アプローチ

各版の対象を構成する楽譜内容 𝕊 を形式的に定義することは、版圏構成の最も困難な側面である。ここでは段階的な形式化を試みる。

3.3.1 第一レベル:構造的記述

第一レベルでは、楽章構成・調性・拍子・テンポ指定・演奏時間(概算)という高レベルの情報のみを形式化する。第八番の二つの版の第一レベル記述を比較すると以下のようになる。

𝕊₈¹[Str] = {I(c, 4/4, ~20min), II(c, 3/4, ~14min), III(E♭, 4/4, ~24min), IV(c→C, 4/4, ~22min)}

𝕊₈²[Str] = {I(c, 4/4, ~14min), II(c, 3/4, ~16min), III(E♭, 4/4, ~28min), IV(c→C, 4/4, ~26min)}

第一レベルの比較から既に重要な情報が得られる。第一楽章の長さが1887年版では約20分、1890年版では約14分であるのは、1890年版での大幅なカットを反映している。第三楽章は逆に1890年版の方が長く(24分→28分)、アダージョの充実が見て取れる。

3.3.2 第二レベル:主題素材の記述

第二レベルでは、各楽章の主題(テーマ)素材を形式化する。各主題を音高クラス列・リズム型・調性文脈の組として表現する。

θ = (P, R, T)

ここで P は音高クラス列(Pitch Class Sequence)、R はリズム型、T は調性文脈である。版間の主題素材の差異は、θ の成分の差異として記述できる。

3.3.3 第三レベル:声部・和声・管弦楽法の記述

第三レベルは最も詳細であり、個々の音符・和声進行・声部書法・管弦楽法の完全な記述を含む。これは実質的に楽譜そのものをある形式言語に変換することに相当する。現代の音楽情報処理(MIR:Music Information Retrieval)の研究では、MusicXML や MEI(Music Encoding Initiative)がこの目的に使用されている。

圏論的観点からは、楽譜内容 𝕊 を「グラフ(有向グラフ)の圏 Graph における対象」として捉えることができる。この場合、音符・和声・声部は頂点(vertex)として、それらの間の時間的・和声的関係は辺(edge)として表現される。この「音楽的グラフ」から版圏への函手が、各版の楽譜内容を対象として送り込む。

3.4 版圏の位相的考察

版圏 𝐁𝐫𝐮𝐜𝐤 に位相論的な考察を加えることは、版の「近さ」と「遠さ」を形式化するために有用である。

3.4.1 版間の距離関数

二つの版 v と w の間の「距離」d(v, w) を定義することを試みよう。直感的には、二つの版が演奏上「よく似ている」ほど距離が小さく、「大きく異なる」ほど距離が大きい。

一つの形式化として、楽譜内容の対称差(symmetric difference)を使用する方法がある。

d(v, w) = |𝕊(v) △ 𝕊(w)| / |𝕊(v) ∪ 𝕊(w)|

ここで △ は対称差、| · | は「サイズ(メジャー)」を表す。この定義によれば d(v, v) = 0、d(v, w) = d(w, v)(対称性)が自動的に満たされ、三角不等式も成り立つ(または成り立つように 𝕊 を定義できる)。

この距離関数を使えば、版圏に距離空間の構造を与え、さらに「版のトポロジー」を考察することができる。例えば、第三番の三つの版がなす「点群」において、第一稿は第二稿・第三稿からの距離が大きく(改訂が大規模)、第二稿と第三稿は比較的近い(改訂が小規模)という幾何学的描像が得られる。

3.4.2 シンプリシャル複体としての版の関係

版間の「共有素材」関係を使って、版の集合にシンプリシャル複体(simplicial complex)の構造を与えることができる。

0-単体(頂点):個々の版

1-単体(辺):二つの版が有意な共有素材を持つ場合

2-単体(三角形):三つの版が互いに有意な共有素材を持つ場合

このシンプリシャル複体のホモロジー群を計算することで、版の関係網のトポロジカルな性質(連結成分の数、穴の数等)が明らかになる。例えば、第八番の1887年版・1890年版・ハース版のなす三角形の内部が「埋まっている」か否かは、三版の関係が「充填的(filled)」か「穴あき(hollow)」かを表す。