第二章:圏論の基礎概念 - 音楽分析への導入
第二章 圏論の基礎概念:音楽分析への導入
2.1 圏(Category)の定義
圏論の基礎概念を、ブルックナーの版問題への応用を念頭に置きながら解説しよう。圏(Category)は以下の要素からなる数学的構造である。
【対象(Objects)】:圏に属する「もの」。記号 ob(𝒞) で表される集まり。
【射(Morphisms, Arrows)】:対象から対象への「矢印」。各射 f は始域(domain)dom(f) と終域(codomain)cod(f) を持ち、f : A → B と書かれる。
【合成(Composition)】:f : A → B かつ g : B → C であれば、合成射 g ∘ f : A → C が存在する。
【恒等射(Identity Morphism)】:各対象 A に対して恒等射 id_A : A → A が存在し、任意の f : A → B に対して f ∘ id_A = f かつ id_B ∘ f = f を満たす。
【結合律(Associativity)】:h ∘ (g ∘ f) = (h ∘ g) ∘ f
𝒞 = (ob(𝒞), hom(𝒞), ∘, id)
圏の最もシンプルな例として、集合の圏 Set を考えよう。Set において、対象は集合であり、射は集合間の関数である。関数の合成は通常の合成であり、恒等射は各集合上の恒等関数である。この例が示すように、圏論は「もの」そのものよりも「もの間の関係」に焦点を当てる。
2.2 射(Morphism)の種類と性質
圏論において射は様々な性質を持ちうる。ブルックナーの版問題を分析する上で特に重要な射の種類を以下に説明する。
2.2.1 同型射(Isomorphism)
射 f : A → B が同型射(isomorphism)であるとは、逆射 g : B → A が存在して g ∘ f = id_A かつ f ∘ g = id_B を満たすことをいう。同型射の存在は A と B が「圏論的に同値」であることを意味する。
f : A → B が同型射 ⟺ ∃g : B → A, g ∘ f = id_A, f ∘ g = id_B
音楽的に言えば、二つの版が同型であるとは、一方を他方に変換し、かつ逆変換によって元に戻せるような関係にあることを意味する。これは版問題における「本質的に同じ」という概念の精密化として機能する。
2.2.2 モノ射(Monomorphism)とエピ射(Epimorphism)
射 f : A → B がモノ射(monomorphism)であるとは、任意の g, h : X → A に対して f ∘ g = f ∘ h ならば g = h が成り立つことをいう。集合の圏では、モノ射は単射(injective function)に対応する。エピ射(epimorphism)はその双対概念であり、集合の圏では全射(surjective function)に対応する。
ブルックナーの改訂プロセスにおいては、ある版から別の版への変換がモノ射的性格を持つか否か(情報の保存があるか)、エピ射的性格を持つか否か(すべての要素が新版によって「覆われる」か)という分析が可能になる。
2.2.3 終対象(Terminal Object)と始対象(Initial Object)
圏 𝒞 における終対象(terminal object)1 とは、任意の対象 A から唯一の射 A → 1 が存在するような対象である。始対象(initial object)0 は双対的に、任意の対象 A への唯一の射 0 → A が存在するような対象である。
終対象: ∀A ∈ ob(𝒞), ∃! f : A → 1
始対象: ∀A ∈ ob(𝒞), ∃! f : 0 → A
ブルックナーの版問題における終対象の概念は、「すべての版からの一意な射を受け入れる版」、すなわち「理想的な最終版」という概念に対応しうる。これは演奏者がしばしば求める「決定版(Urtext)」という概念の圏論的定式化として解釈できる。
2.3 函手(Functor)
函手(Functor)は圏から圏への「構造を保つ写像」である。函手 F : 𝒞 → 𝒟 は以下を満たす。
【対象の写像】:各対象 A ∈ ob(𝒞) に対して対象 F(A) ∈ ob(𝒟) を対応させる。
【射の写像】:各射 f : A → B に対して射 F(f) : F(A) → F(B) を対応させる。
【恒等射の保存】:F(id_A) = id_{F(A)}
【合成の保存】:F(g ∘ f) = F(g) ∘ F(f)
F : 𝒞 → 𝒟, F(g ∘ f) = F(g) ∘ F(f)
函手の概念は、異なる音楽的次元の間の「構造保存的な対応」を記述するために使用できる。例えば、ある作品の版の圏から、その演奏実践の圏への函手は、版の変換関係がいかに演奏実践に反映されるかを形式化する。
2.3.1 共変函手と反変函手
函手が射の向きを保つ場合を共変函手(covariant functor)、射の向きを反転させる場合を反変函手(contravariant functor)という。反変函手 F : 𝒞^{op} → 𝒟 は、𝒞 の射 f : A → B を 𝒟 の射 F(f) : F(B) → F(A) に対応させる。
音楽分析における反変函手の直感的意味:ある版の「細部の豊かさ」が増すほど、その版の「演奏のしやすさ」が減少するという逆相関関係は、反変函手的な関係として捉えることができる。
2.3.2 忠実函手・充満函手・本質的全射函手
函手 F : 𝒞 → 𝒟 が忠実(faithful)であるとは、各 A, B ∈ ob(𝒞) に対して hom_𝒞(A, B) → hom_𝒟(F(A), F(B)) が単射であることをいう。充満(full)とは全射であることをいう。本質的全射(essentially surjective)とは 𝒟 の任意の対象が 𝒞 のある対象の F による像と同型であることをいう。忠実・充満・本質的全射を満たす函手は圏の同値(equivalence of categories)を与える。
ブルックナーの版問題に即せば、版の圏から演奏実践の圏への函手が忠実であることは、版の違いが演奏の違いに忠実に反映されることを意味し、充満であることは、演奏実践におけるすべての関係が版の差異から説明できることを意味する。
2.4 自然変換(Natural Transformation)
自然変換は函手間の「射」である。F, G : 𝒞 → 𝒟 を二つの函手とする。自然変換 α : F ⟹ G は、各対象 A ∈ ob(𝒞) に対して射 α_A : F(A) → G(A)(「成分(component)」)を対応させ、任意の射 f : A → B に対して以下の「自然性の正方形(naturality square)」が可換となることを要求する。
G(f) ∘ α_A = α_B ∘ F(f)
可換図式で表すと:
F(A) ──F(f)──> F(B)
|α_A |α_B
↓ ↓
G(A) ──G(f)──> G(B)
自然変換の概念は、ブルックナー版問題において「版間の対応の整合性」を記述するために中核的な役割を果たす。二つの解釈(分析の方法)F と G が同じ版の圏に適用されたとき、それらの間の自然変換は、F による解釈と G による解釈が「本質的に整合している」ことを意味する。
2.5 極限と余極限
2.5.1 積(Product)と余積(Coproduct)
圏 𝒞 における対象 A と B の積(product)A × B とは、射影 π_A : A × B → A と π_B : A × B → B を持ち、任意の対象 X と射 f : X → A, g : X → B に対して唯一の射 h : X → A × B が存在して π_A ∘ h = f かつ π_B ∘ h = g を満たすような対象である。
∀X, f : X→A, g : X→B, ∃! h : X → A×B, π_A∘h = f, π_B∘h = g
余積(coproduct)A + B は双対的に定義される。射 ι_A : A → A + B と ι_B : B → A + B を持ち、任意の対象 Y と射 f : A → Y, g : B → Y に対して唯一の射 h : A + B → Y が存在する。
ブルックナーの版問題において、二つの版の「積」は両者の共通部分(両版に存在する要素)に対応し、「余積」は両者の合計(いずれかの版に存在するすべての要素)に対応する直感的解釈が成り立つ。
2.5.2 引き戻し(Pullback)と押し出し(Pushout)
引き戻し(pullback)は、二つの射 f : A → C と g : B → C に対して定義される極限である。引き戻し P は射 p₁ : P → A と p₂ : P → B を持ち、f ∘ p₁ = g ∘ p₂(可換性)を満たし、普遍性(universality)を持つ。
P ──p₁──> A
|p₂ |f
↓ ↓
B ──g──> C
押し出し(pushout)は双対概念であり、二つの射 f : C → A と g : C → B に対して定義される。
ブルックナーの版問題における引き戻しの解釈:二つの版 A と B が共通の「源泉」C(例えば自筆スケッチや初稿)から派生している場合、引き戻し P は「A と B の両方の性質を満たす最も一般的な版」を表す。これは「公約数版」とも呼べるものである。一方、押し出しは「C から出発して A と B の両方の発展を包含する最も小さな版」を表し、「最小公倍数版」ともいえる。
2.5.3 イコライザー(Equalizer)とコイコライザー(Coequalizer)
二つの射 f, g : A → B のイコライザー(equalizer)e : E → A とは、f ∘ e = g ∘ e を満たし、この性質を持つ最も「大きな」サブオブジェクトである(普遍性)。コイコライザー(coequalizer)はその双対である。
イコライザーは、二つの版間で「同じ働きをする」部分を形式的に抽出する操作として解釈できる。第八番の1887年版と1890年版のイコライザーは、両版において機能的に等価な音楽的構造の集合を与える。
2.6 随伴(Adjunction)
随伴(adjunction)は圏論において最も豊かな概念の一つである。函手 L : 𝒟 → 𝒞 と R : 𝒞 → 𝒟 の間の随伴(L が R の左随伴、R が L の右随伴)は以下の条件で定義される。
hom_𝒞(L(D), C) ≅ hom_𝒟(D, R(C)) (自然同型)
随伴の直感的意味は「最適な近似」である。左随伴は「自由構成」を、右随伴は「忘却」を表すことが多い。ブルックナーの版問題において、「版の複雑化(詳細化)」と「版の単純化(本質抽出)」の間の随伴関係は興味深い解釈をもたらす。詳細な版から本質を抽出する操作(忘却函手的)と、本質から最も「自由」な詳細化を生成する操作(自由函手的)の間に随伴が成立するか否かは、版の構造について深い情報を与える。
2.7 トポス(Topos)と内部論理
トポス(topos)は圏論の一概念であり、「集合の圏 Set の公理的一般化」として捉えられる。グロタンディーク・トポスとエレメンタリー・トポスの二種類があるが、ここでは後者の概念を簡単に紹介する。エレメンタリー・トポスは、有限極限の存在、冪対象(power objects)の存在、部分対象分類子(subobject classifier)Ω の存在によって特徴づけられる。
ブルックナーの版問題にトポスの概念を適用することは、版の「内部論理(internal logic)」を研究することに相当する。各版を「小宇宙」として、その内部での真理値体系(どの命題が「この版において真か」)を直観主義論理によって記述することが可能になる。これは、「第八番の第一楽章コーダにおけるクライマックスの高点」が1887年版において「真」であり1890年版においては「偽」(別の形で実現される)という事実を、形式的に扱う枠組みを提供する。